ソフトウェア開発に対する認識

さんざんソフトウェア開発をやりたくない、という後ろ向きの発言を繰り返している私であるが、逆にいえばどういう状況であればソフトウェア開発をやってもいい、あるいはやりたいか、ということを考えてみる。

私は別にソフトウェア開発そのものがめちゃくちゃ嫌いなわけではないのだが、それに伴うわずらわしいコミュニケーションという名の手戻りが嫌なのだ。理想をいえば、仕様書がきちんとあって、それをそのまま実装すれば仕事が終わり、というのが望ましい。本来プログラマの仕事はそうあるべきものだと思うのだが、日本の現場ではそういう理想的な状況はほとんどない。仕様書は常に不完全で、開発プロセスのほとんど終わりになって、仕様変更がかかる。それで納期を守ることが難しくなり、納期前の労働密度が強化される…という部分がほんとうに困る。

どうしてこういうことになるかといえば、日本人が仕事でやるべきことを文書にして表現する習慣がないためと思われる。そして、伝統的に顧客が強い権力を握っているために、開発者は顧客のわがままに付き合わざるを得ない。これは構造的な問題であり、日本的な組織で働く以上、絶対に逃れられない。

他の業界でも、日本人の働き方は同じなのだが、ソフトウェアの場合、構造が極めて複雑で手戻りの工数がとても高価になりうるというのが特徴なのだ。

…こういうことは日本的組織の中で働く以上は受け入れる他ない。そして今日もソフトウェア技術者は徹夜で納期を守るのだ。

ベトナムで働きたい

いろんなことを考えたが、結論としては次のとおりだ。

ベトナムで働きたい」

ただここで問題がひとつある。

「いったいどういう形で働けばいいのか?」

ということである。

ここで年譜的に私の人生を振り返ってみる。

  • 2006年 (株)ソフトカルチャー設立 Ruby on Rails を使ったウェブサイト開発に従事
  • 2008年 ベトナムに渡る。当初の目的は、オフショア開発を行うソフトウェア企業を設立することだった。
  • 2010年 ベトナムにて米国公認会計士資格を取得。
  • 2011年 日本に戻る。Twitter 社受験。
  • 2012年 「パブリックマン宣言」。Skype 相談。エルムラボ開始。
  • 2013年 エルムラボ有料サービス終了。→いまここ。

私はソフトウェア技術者だった。だが、ソフトウェア開発における複雑なコミュニケーション・人間関係に疲れてしまい、ソフトウェア開発の仕事を脱出することを試みたのが、2010年だった。そこで私は米国公認会計士の資格を得て、ベトナムで会計士として働くことを目指した。だが、ベトナムで仕事が見つからなかった。

失意のまま日本に帰ってきた。だが、日本でもソフトウェア開発の仕事から離れたくて、いろんな仕事を試みた。Skype 相談は楽しかったが、生活に充分なお金が稼げなかった。

いろんな意味で、正社員として会社勤めするのはもう無理であることが、最近いくつかの出来事を通じてはっきりした。私には、日本的な空気読みのスキルがない。顧客とあうんの呼吸で言われなくても先回りして何かしてあげるというのは難しい。できれば、明確な契約を結んで、あらかじめ指定された範囲の仕事をきちんとこなす、という形が望ましい。

ベトナムで働くとした場合も、どこかの会社の正社員という形で働くのは、非常に難しいように思う。だから、何らかの仕事を受注して、それをこなすという請負の仕事になるだろう。できればソフトウェア開発の仕事はあまりやりたくない。トラウマ化してしまっているのだ・・・。

正社員では働けない、ソフトウェア開発の仕事はしたくない、でもベトナムで働きたいというのは虫がよすぎる話だろう。…書いていて、無理な気がしてきた。

ベトナムで、給料は安くても良いので、それほど難しくない仕事で、半年間くらいアルバイト的に働けたら理想なのだが・・・。

今年は、私は法律系の資格試験の勉強に費やした。社労士と行政書士の試験を受けた。社労士は惜しくも落ちた。行政書士は、合格発表は2014年1月末だが、自己採点の結果を見るかぎり、合格したはずだ。

どうして私が行政書士を受けたかというと、ITに頼らずに収入を得る道を模索したかったからだ。ただ、当然ながら行政書士の資格はベトナムでは直接役に立たない。

どうして、私がベトナムにこだわるかというと、私はベトナムでビジネスをすることを試みたにも関わらず、結局、ベトナムできちんと仕事ができなかったのだ。だから、いちどベトナムできちんと仕事をしてみたいという気持ちがいまだに残っている。ベトナムは、生活する場所としては私はとても好きであるし・・・。

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自分で書いていて、本当にひどいものだな、と思う。
これじゃ、人々から批判されても仕方ないよね。

要するに「仕事をしたくない。いままで楽しかった仕事がないから」ということなのだ。我ながらグズすぎる。

偉そうに社会批判をして、Skype相談で人々に「助言」を与えていた自分をとても恥ずかしく思う。
私にはそんな資格はないのだ。

たしかに、可能性として、日本的な「あうんの呼吸」で仕事する職場以外なら、もう少しうまくやれたかもしれない。私は実際、今年の前半、海外留学を目指して準備をしていた。海外で就職するためだ。だが、年齢的にも経済的にもそれはいまさら海外留学するのは難しかった。

私は、この半年間、PC設定などのIT系のアルバイトをしつつ食いつないできた。おそらくいちばん現実的なのは、東京でそれほど難しくないIT系の派遣の仕事について、しばらく安定的な収入を得るという道であろう。

ただ、ベトナムでいつか仕事をしてみたい、という気持ちは残っているのだ。
もし、こんな私に仕事を出したいという方がいらっしゃったら、ご連絡ください(メールアドレス→eijisakai@gmail.com)。

地道なIT系の作業を私がベトナムで請け負うのも一つの可能性だ。遠隔でのコミュニケーションにはなるが、私がベトナムに常駐するなら相当安くサービスを提供することはできるだろう。

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私は、「パブリックマン宣言」でなぜかネットでの「人気」が沸騰して、どうもある種のイメージを持たれて見られるようになってしまった。いつの間にかそれに私自身がとらわれるようになってしまった。私は、そのイメージを壊したい。現実の私は、本当にダメな人間である。いくら日本社会や日本企業を批判したところで、そこからカネをもらうしか道がないのなら、そのやり方に適応できないのはいずれにしろ致命的である。

だから、私はあえてこんな情けない自分自身を晒して、自らをどん底に叩き落とし、そこからなんとか這い上がる道を選びたい。

普通は、こんなにブレブレに迷っている姿を他人には見せないだろう。見せれば相手を不安がらせるだけだ。だから、この半年間私はブログに何も書けなかった。

だがブログを書かなければ問題は解決するのかといえば、ますます私の混乱した思考が地に潜っていった。だから、格好をつけるのをやめた。いまのどうしようもない状態のまま、とりあえず外に吐き出してみることにした。

そうやって外に向けて思考を発信しているうちに、少しずつ思考が整理されていくであろうと信じて…。

今日の文章にはまったくまとまりがないが、しばらくは、こんな感じで自分の思考過程を外に開示していくことを続けていきたい。

(追記)

その後、私はベトナムにすぐにでも行こうかと考えた…。だが、私にはまだ準備が足りない。ベトナムで成功する確率をもっと上げたい。自分の中でベトナムがとても大切な場所になっているので、失敗は絶対にしたくないのだ。ベトナムいづれ働きたいとは思うが、もうしばらく準備をしたいと思う。

ブログ再開予告

みなさま、本当にお久しぶりです。

この半年間、私はどうしてもブログが書けなかった。
なんども書こうと思いつつ、どうしても書けなかった。

いろんな事情が複雑に絡み合って、どうにも書けない膠着状態に陥ってしまったのだ。

ただこの数週間で状況が大きく動き、再びなんとかブログが書けるかな、という心理状態になってきた。

これから少しずつ、この半年間で考えたこと、いま考えていること、これからやりたいと思っていることを書いていきたい。

みなさんよろしくお願いします。

(追記)
私はいま、自分ではどうにもできない問題を抱えていて、それを開示して、みなさんに応援をお願いすることになると思う。

自分にとって、本当に情けない姿をさらすことになるだろう。それによって私を非難したり嘲笑したりする人たちも出てくるだろう。それも仕方ないことだと思う。正直、本当に恥ずかしい。

私はいままでずっと一人で自分の問題を解決してきた(少なくともそういう意識だった)。だがいま私はどうにも自分では解決できない問題を抱えている。いままでの生き方を変えて、他の人に助けを求めようと思う。

人に助けを求めるのは、自分の脆弱性を相手に委ねることに等しい。正直、怖い。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」と言う。あたかも何も問題がないような振りをして、あとで「こうすればよかった」と悔いるよりも、とりあえず問題を開示して、行動のヒントを得ることを試みてみようと思う。たとえ、結局、問題がどうにもならなかったとしても、あきらめがつきやすいと思うのだ。

極めるひとほどあきっぽい

献本多謝。私自身、非常にあきっぽい人間なので、「私があきっぽいのも、いろんなものを極めてきたからなのか??」と思わず興味をそそられた。私自身、経済学・IT・英語・会計学等々の多様な分野で、普通にメシが食えるレベルまで激しく学んできたからだ(それでいて何でメシを食うべきかいまだに迷っているのは皮肉な話だが…(笑))。

極めるひとほどあきっぽい

極めるひとほどあきっぽい

著者の窪田良氏は、

1966年、兵庫県出身。慶応義塾大学医学部を卒業後、同大学大学院に進み、緑内障の原因遺伝子「ミオシリン」を発見する。その後、臨床医として虎の門病院や慶応病院に勤務するも2000年に渡米、2002年に米シアトルの自宅地下室でバイオベンチャー、アキュセラを設立した。現在は加齢黄斑変性やドライアイ、緑内障など様々な眼科治療薬を開発している。加齢黄斑変性臨床試験の第3相(フェーズ3)に突入した。

という人物。これだけ見ると順調なエリート中のエリートにしか見えない。慶応大学の医学部は東大の理科三類とならんで、難関中の難関。窪田さんは、超がつくほど頭がいいのは間違いないのだが、それだけではない。子供のような好奇心を頼りに前を見て突き進んできた破天荒な人間的魅力に満ちた人物でもあるのである。

窪田さんはなぜ「あきっぽい」と主張しているのか?

実を言うと、ぼく自身はほぼ10年ごとに別の自分になってきた。

ぼくが研究者を志したのは、慶応義塾大学医学部に在籍していた21歳の時だった。その後は苦労の連続だったが、最終的に30歳でミオシリンに関わる一連の論文を提出することができた。

同様に、ぼくが臨床医としてのキャリアをスタートしたのは、慶応義塾大学大学院に進み、慶応大学病院で臨床研修を始めた24歳のことだ。途中、研究にかかりきりで臨床は疎かになっていたが、30歳で虎の門病院に移り、34歳で米ワシントン大学ワシントン州シアトル)に赴任するまで腕を磨き続けた。

そして、36歳でアキュセラを創業したぼくは46歳の今、新薬開発の終盤にさしかかっている。早ければ、3〜4年には新薬が出せるかもしれない。

研究者と眼科医はパラレルだったが、ぼくは10年ごとに違う自分になってきた。たった46年の人生で、研究者、眼科医、起業家ーーーとキャリアを変えていく人間はそうそういないだろう。

そうかなあ(笑)。この書籍のコンセプトに疑義をさしはさむようで申し訳ないのだが、「眼科にかかわる仕事」という意味では一貫性があるし、「10年で変わる(飽きる)」ってそんなの当り前じゃないだろうか?(笑)。私から見ると、窪田さんは、「道を極める」人ではあっても、少しも「あきっぽい」人には見えないのである。医学業界だと確かに異端児なのかもしれない(またそれが日本の医学界の保守性を意味しているのかもしれない)。

彼の原点は10歳からの数年間を過ごした米国生活にある。窪田さんは、推論能力は異常に高い一方で、暗記能力がきわめて乏しかった(私もそういうタイプ)。そういう彼には日本より米国の教育のほうがあっていた。

また、「暗記させずに考えさせる」という学校の指導法が性に合った。

例えば、「作用・反作用の法則」に関する授業では以下のような問いが出た。
「ボートの側面を押しても前に進まないのはなぜか」
(中略)
もっとも、授業ではこういった解答をすぐには示さない。前に進むと考える人と、進まないと考える人を2つのグループに分けて徹底的に議論させる。
(中略)
ディスカッションを通して答えを導くというプロセスはぼくにとって極めて刺激的だった。

実にうらやましい。創造性を伸ばすにはこういう教育が一番だろう。日本の教育は、いまだに暗記中心でこれとは正反対だ。

窪田さんが、米国で起業できたのは、子供時代に養った英語力と米国文化への理解があったからにちがいない。こういう可能性が人生の後半で広がるわけだから、これからの子供たちにはぜひ英語をマスターしてほしいと思う。

窪田さんは、日本と米国のいいところを自然体で受け入れている。米国では、バイオベンチャーは医者ではなく経営のプロが興すのが常識とされている。経営の経験のない単なる研究者・医者であった窪田さんが起業できたのは、彼の人間性を見てカネを出してくれた日本企業があったから。日本企業は、短期的利益ではなく長期的関係を重視するのに救われた形だ。

その一方で、彼はアキュセラのビジネスが薬の「探索」から「開発」に代わるタイミングで人材を大幅に入れ替えている。探索ではクリエーティブな人物が必要だが、開発ではオペレーションに優れた人物が必要になってくる。ここで彼は断腸の思いで、クリエーティブな研究者たちを大量解雇してしまうのだ。最高の手柄をあげた人たちを解雇するなんて日本では考えられない。だが、実際に会社が変われば不要な人材が出てくるのは自然の理だ。米国では「この会社での功績を売りにもっと高い報酬がもらえる会社に移りなさい」と従業員の背中を押す。とても自然な考え方で人道的な態度だろう。だけど日本社会ではとうめん起こりそうもない。もしアキュセラが日本にあったら、不要な人材を抱え込みつつ、会社も従業員も不幸になっていただろう。おそらく新薬を実用化するフェーズにはたどり着けなかったに違いない。

アキュセラは、窪田さん自身がそうであるように、日米文化のいいとこ取りをした会社と言えるだろう。

最後に彼の日本社会へのメッセージを引用してこの書評を結びたい。私もまったく同感だ。

ただ、多様性に乏しい今の日本がイノベーションを起こしていくのはかなり難しいのではないでしょうか。

最近は多少変わってきていますが、移民がいる欧米の国々に比べれば、日本は同質的な社会で国民の価値観や考え方も比較的近いと言われています。さすがに女性の社会参加は増えていますが、企業との会議にでても国内の大学を出たほぼ同年代の男性ばかり。ご高齢の方や外国出身者が出てくることはそれほど多くありません。これはコミュニケーションや社会の安定を考えればメリットかもしれませんが、イノベーションという面では明らかにマイナスです。

もちろん、移民を入れろという単純な話をしているのではありません。海外で幼少期を過ごしたり、大学で留学したり、異質な文化に触れた人が増えたりするだけでも多様性は増すでしょう。今の日本に必要なのは、人材の多様化を進め、異質なものを許容する社会を作ることだと思います。

現実と格闘する

例のボランティアグループで外国人の子供たちに日本語(国語)を教えた。子供たちは、一人ひとりはかわいいのだが、集団になるとなかなか凶暴である。昨日は私はもたもたしているうちに、子供たちに舐められてしまい、なかなか言うことを聞いてくれないで難渋した。学校の先生が、教室では非常に厳しく子供に接する理由がわかった。子供は、大人の事情を理解しないので、ある程度、決まりを作って強制的に守らせるようにしないと教室の秩序が維持できないのだ。

もちろん、これは大人側の落ち度でもあるとは思う。子供一人一人にあった教材で一人一人のペースで学習を進めさせることができれば、子供は自発的に楽しく学ぶだろう。だが、それを実現するためのリソースがいままで存在しなかった。大人一人に対して子供数十人という比率では、個別の指導は難しい。

将来の方向性は、「一斉授業的な部分は、ビデオを見て家で済まし、宿題的な作業は、教室でやる」という従来の授業を逆転させた形であろう。カーンアカデミーが目指す方向である。

ただ日本の学校は極めて保守的でこういう方向で IT を積極的に活用していくのは近い将来に関しては起こらない気がする。日本のボランティア活動の多くは、高齢者によって支えられており、彼らの IT アレルギーも著しい。ボランティア活動にとって、ソーシャルメディアは非常に相性がいいにもかかわらず、活用されていないのはまことに残念としかいいようがない。

私が参加しているボランティア活動には、いくつもの問題点がある。リソースが足りないのでボランティアにかかる負担が重くなり、それゆえにボランティアが定着しないという悪循環がある。日本の組織固有の問題として、ロジスティクス兵站)を重視しないという問題もある。現場の創意工夫に頼りすぎていて、組織としてボランティアに負担がかかりすぎないようなリソース配分を行おうという意思が乏しい。

傍観者の立場から問題を指摘するのは簡単だが、どうやって解決できるのか?これはなかなかの難問だ。いくつかの要素が互いにかみ合っているという構造的な問題であるからだ。これらの問題を本気で解決しようとしたら、本格的なコミットメントが必要になる。ボランティア団体のリーダーは約30年間現場で奮闘してきたひとだ。そういう人たちと同等の覚悟が持てるのか。

私にはやらなければならないことがたくさんあり、正直、このボランティア活動に100%の時間を割くことはできない。だから、部分的にできるところを真剣にやるしかないのかもしれない。ただ、以前の私なら、この構造的な問題を見ただけで、尻尾を巻いて逃げ出していた。今後の私は、現場のやり方をいったん受け入れたうえで、そこで踏ん張りながら、現実にそのやり方を「部分的に」改善することを試みようと思う。

私は、いままで現実を傍観しつつ批判する「評論家」として生きてきた。私のネット上での評判も評論家としての酒井英禎に対して向けられていたんじゃないかと思う。だが、ずっと昔から、単なる「評論家」として生きるのは、人としてずるいと思っていた。退屈な人生だと思った。生身の身体を持って生きているんだから、この現実と格闘し、少しでも改善してナンボの人生じゃないのか。「評論家」としての対極にある「実践家」としての私の人生は、評論ほど鮮やかなものではないかもしれない。ごく平凡なもので、人々の注目は集めないかもしれない。ただ、私は人の注目を浴びつつ空虚な人生を歩むより、誰にも見られなくても自分が納得する実直な人生を歩みたい。

ただ、私のやり方は、現実を盲目的にすべて受け入れるということではない。批判精神を持たずにはいられないのが私の気質である。現実をいったん受け入れるも、強烈な私の批判精神をそれに対抗させ、火花を散らしつつ、現実を動かしていくこと。非常に困難だが、それが私がこの世で為すべき本当の仕事なのだろう。

起業を支援する「教育機関」としてのインキュベーター

今日は、代官山にある Open Network Space で行われたイベントに参加した。

Disney、Xerox、Sony Music、Evernoteなど世界3万社が利用するカスタマーサポートサービスZendesk CEOランチミートアップ!

ランチミートアップということでビザとソフトドリンク(一部のテーブルにはビールも)を飲食しながらのカジュアルな雰囲気での講演会だった。Open Network Space は通常 Open Network Lab(以下 Onlab という)に参加するスタートアップの人たちが利用するコワーキングスペースになっているらしい。

Onlab はスタートアップを支援するインキュベーター機関だ。この手の機関としては、ポール・グラハムがやっている Y Combinator が有名だが、メンタリング(開発中に困ったことの相談に乗る)と資金提供が主な機能だ。最近は日本国内に MOVIDA Japan など似たことをやっているところが増えてきたものの、米国(シリコンバレー)とのつながりでは、Onlab が一番らしい。

Onlab はときどき今日のようなイベントを行っている。

Zendesk はヘルプデスクのクラウドサービスを提供している。営業マン向けのウェブサービス Salesforce のヘルプデスク版、という感じだろうか?創業5年の社歴の若い企業だが、急成長を遂げ、すでに全世界に顧客が3万社もあるそうだ。

Zendesk CEO のミッケル・スヴェーン氏はデンマーク人。デンマークでこの事業を開始するも、最初の顧客は米国企業だった。最初から規模の小さいデンマーク市場は念頭になかったという。デンマークはスタートアップの文化がない国だそうだ。それゆえシリコンバレーへの会社移転を決意。CEO 氏の英語は若干の訛りはあるものの、きれいな英語だ。それでも、シリコンバレーに人的ネットワークがない外国人として、当地のベンチャーキャピタルから出資を受けるのは大変だったそうだ。

このCEO氏はとても気さくな人で、エクジット(最終的な投資回収方法。上場(IPO)または身売り(M&A))はどうするの?と聞いたら率直に答えてくれた。じっくり自分の会社を育てていこうというタイプのようだった。あと「デンマーク人はビール飲むの?」と尋ねたら「すごい飲む。日本人と同じ」とにっこり笑った。営業スマイルかもしれないが、やはり欧州人は米国人より実直な感じはする。

CEO 氏との質疑応答では、聴衆から流暢な英語での質問が相次いだ。米国育ちの日本人たちも多く参加しているようだった。Open Network Space に集まっている人たちは、半数以上が20代の若者たちのようだったが、意欲が高くて、実に頭がよさそうだった。

私はあまりにいろいろ回り道をしてきたので、ろくでもない連中と付き合ってずいぶんイライラし、ずいぶん日本批判もしたが、実は日本にはこんなに優秀な人たちがいるのだ。本来、私もこういう人たちと交わって叩きのめされるべきなのだろう。他者を批判している暇などないはずだ。

Onlab 取締役の前田紘典さんとイベントの後にお話しさせていただく。冷静沈着で非常に頭が切れる方だった。米国の大学を卒業し、米国で技術者としてビジネスをしていた方とのこと。日米の起業環境の違いについてお話を聞く。Onlab のような例外を除くとやはり日本の投資家はベンチャー精神がわかっていない連中が多いようだ。成長過程の資金が一番ショートする時期に逃げ出す投資家たちもいて問題とのことだった。

こうしたスタートアップ回りではエンジニアがつねに不足しているらしい。同じテーブルに座った人に「昔 Ruby on Rails でプログラムを書いていました」と言ったとたんに「うちに来て働きませんか?」と誘われたのには驚いた。ただ Onlab の前田さんはもっとさめた味方をしていて「優秀なエンジニアは十分な数存在する。ただ彼らを巻き込んでいけるイケてるスタートアップが少ない」とのこと。

いずれにしろ、5年前にはこういうスタートアップを支援してくれる場所は存在しなかった。メンタリングや出資までしてくれる。技術だけでなく、マネジメントやビジネスのやり方も教えてもらえる(直接教えてもらえなくても、どうやったら学べるかヒントがもらえる)。きちんとしたプロトタイプさえ作れば、国籍や年齢を問わず入ることができる。ビジネスを実地で学ぶ場所として、ある意味、高いカネを払って MBA を取るよりずっといいのではないか。

インキュベーターは、新しい時代の大学院なのかもしれない。

日本社会から逃げずに向き合う

今日は、ある外国につながる(外国人の親をもつ)子供たちに日本語を教えるボランティアの打ち合わせに行ってきた。楽しい時間ではあったが、いろいろ問題点も多いなと感じさせられた。

主催者は長年地道に活動している団体で、いたってまじめで真剣だと思うのだが、いかんせんリーダーが高齢の方ということもあり、やり方が古臭く感じる。もっとソーシャルメディアやデジタル機器を活用すればいいのになと思いつつも、「授業で iPad を使いましょう」などと言ったら卒倒してしまいそうな雰囲気だ。しかし、話を聞いていると学校や行政側はそれに輪をかけて保守的な印象である。

この活動では、ボランティアが定着しないらしく、常に人手不足に悩んでいるようだが、それもむべなるかな、という感じではある。なんせボランティア側の負担が重すぎるのだ。日本の教育業界自体が、おそらく無限サービス残業のブラック産業であるがゆえでもあるせいだろうが、これではやりたくても長続きしない人が多いのは無理もない気がする。IT ではなく紙ベースでやっているがために、教えることとは関係ない事務作業が多すぎる。仕事が苦痛になるのは、その本来の活動以外の雑務が増えすぎるときだ。ボランティアに定着してもらうには、仕事自体を楽しみにしなければならないのではないか。雑務をさせたのでは、ボランティアは逃げていく気がする。

なかなかたいへんな話だ。以前の私なら、理詰めで、初期条件からこれから起こりうる最終的な結果までの一連の出来事を瞬時で想像して「ああ、ダメだ」と投げ出していたかもしれない。だが、今回は少しだけ行動パタンを変えてみたい。とにかく最初は、彼らのやり方を受け入れてみたい。受け入れて彼らの枠組みでそれなりに成果をだせば、多少は話を聞いてくれるかもしれない。話を聞いてくれなかったとしても、現実的に改善する方法を思いつくかもしれない。

私は茨城県の片田舎で育った。なんでそんなところに住んでいたかというと地方出身の私の父がそういう田舎ぽい場所が好きだったのだ。しかし私の住んでいた地方は、本当に保守的な土地柄で、進取の精神をもった人たちはみんなあきれて逃げ出した抜け殻みたいなところだった。いま思えば、私は、革新的な世界観を持っていた「頭の良い」子供だったのだが、私の考えは保守的な小学校の教師たちにはことごとく受け入れられなかった。私が「なぜ?」と問うても、納得できる返事は帰ってこなかった。あの時から、「大人たち」は私の敵だった。その「大人たち」が私の日本社会に対するイメージの原型を形作っている。私の日本嫌いの源泉であろう。

私はもう子供ではない。少なくとも見た目は立派な大人になっている。私が冷静に理路整然とある主張を行えば、社会もそれを容易には無視できないはずだ。私に求められているのは、本来の意味でのコミュニケーション能力だろうと思う。文化的な文脈を合わせて、相手の立場で物事を見ながら、正しく自己主張することだ。そして、ほんの少しだけ現実を変えることだ。

いま私がボランティアをしているのは、いままでいた IT 業界のほかに、日本社会のいろんな側面を探究したいからだ。ただ、ボランティアベースの活動で引き出せるリソースには限界があると感じる。人が全力で自分のリソースを投入するのは、通常、カネをもらってする仕事に対してだ。やはり世界をもっとも力強く変えていくのはビジネスなのだろう。だが、私は自分でビジネスを始める心の準備ができていない。何が障害になっているのか、今後、ここに書き記していきたい。