「分裂勘違い君劇場」における考察について


ブログ界のすごい人をまた一人発見。fromdusktildawn 氏だ。


「Rubyの生産性の高さはどこまで本当か?」というエントリで、元ネタの「Part1 なぜ仕事で使うとうれしいのか」 をこれでもか、これでもか、といたぶっている。私は、はっきり言って、氏の言うことが半分も理解できなかったが、それでも彼は「Part1 なぜ仕事で使うとうれしいのか」の著者よりは、技能が上のプログラマであろうとは想像がつく。だったら、お手柔らかにしてやればいいのに。おそらくは、CLOS(Common Lisp Object System) に比べて純粋性の低い Ruby が動的オブジェクト指向言語の代表格のように扱われる昨今の状況に我慢ならないように見受けられる。


「Rubyの生産性の高さはどこまで本当か?」の反響が大きかったためか、時を置かず、今度は「現代という時代は、どのようなプログラミングを求めているのか?」で一転して Ruby 擁護とも思える主張を展開している。こちらは、社会論とでも言うべきで、なかなか興味深い。「単純ニーズの飽和」の結果、市場で利益を出すためには、企業は激烈な競争を迫られる。市場ニーズは極端に移ろいやすくなり、それに対応するためのシステム投資もますます迅速化を強いられる。要求仕様の変化はますます頻繁になり、開発前に仕様をフリーズするなどということは期待できなくなる。そういうときには、静的型付け言語の JavaC# より、柔軟に変化に対応できる Ruby の方が有利になる。そして、プログラマは、不確実性と常に戦うために、経営者のようになっていく。

経営の本質とは、機械的に決められないことを、決定し続けることです。

そして、そういう経営の本質が持ち込まれた、現代におけるプログラミングの本質も、機械的に決められないことを、頭を悩ませて、決めることが、プログラミング作業の中心になります。

できるだけ、質の高い判断を、スピーディーにし続けることが、よいプログラマの必須条件になります。


そして、最後の一文はこうやって結ばれている。

しかし、少なくとも、Ruby、もしくは、Rubyと似たような特徴を備える、直感的に読みやすいシンタックスを備える、オブジェクト志向の、動的言語が、時代の流れとマッチしていることは、言えるのではないでしょうか。


ふーむ。ここから、氏の Ruby に対する愛のような、嫉妬のような、複雑な感情を感じ取ってしまうのは、うがちすぎだろうか。


彼は、日本で最高級の頭脳の持ち主であるのは、間違いない。しかし、彼の論調はあくまでも暗い。何の仕事している人かしら。おそらくは、もうそんなに若い歳ではないはずだけど。こんなブログを書いている暇があれば、「劇的に生産性を向上させるメタオブジェクト技術と Ruby on Railsの陳腐化の宿命(Java、C#)に書かれている "C# on Rails" を本当に作ってくれればいいのになあ。こういう人って、意外と会ってみると感じのいい普通の人だったりするものよね。いろいろ妄想してしまうのだった。