なぜ私たちはこの21世紀に通勤なんてしているのだろう?

未来学者アルビン・トフラーは著作「第三の波」で「未来では、高度化した通信機器を使うことによって、在宅勤務が一般化するだろう」と予言した。じつに1980年のことだ。あれから27年。世界は高度情報化という第三の波に洗われている。だが在宅勤務はいまだに一般化していない。どうしてだろうか?

1980年にあった通信手段は、郵便・電話・ファックスだった。それに対して、現在は電子メール・ボイスチャット等インターネットを利用した実に多様な通信手段が利用可能である。在宅勤務のインフラは整いつつあるはずだ。だが、一向に通勤が終わる気配はない。むしろ、この社会は通勤という、わずか100年ほど前に始まった奇妙な習慣がこの先、永遠に続くことを信じて疑わない。

たしかにいくらインターネットが発達しても、直接顔を合わせることには勝てない部分があるのだ。それは、円滑なコミュニケーションに必要なジェスチャーや表情といった非言語的な情報が、直接対面では圧倒的に多いからだ。通信手段がこうした非言語的情報を十分な量運ぶことができなければ、通勤という20世紀的の遺物から決別することはできないだろう。

Second Life をはじめとする3次元の仮想空間は、こうした非言語的情報をより濃く伝達することに注力するようになるだろう。現在の2次元モニターは出力デバイスとしては当面十分だ。問題は入力デバイスである。キーボードとマウスは古すぎる。ジェスチャーや顔の表情を意識しなくても自然に入力できるようなデバイスの開発が必要である。(学術レベルではいろいろ研究はされているらしい)

正直にいうと私は、いまのインターネットの現状にとても退屈している。Google は偉大だ。Youtube もしかり。ブログスフィア万歳。サービスがプラットフォームとなり、参加するユーザがコンテンツ作りの主役を担うようになった Web 2.0 はすばらしい。だが、Web 2.0 はまだ世界のメインストリームにはなっていない。それは、20世紀的な古臭い産業群の上に浮かぶ、はかない浮き草のような頼りのない世界である。それが証拠にわれわれはいまだに通勤なんてしている。オジサマ方は会議のために東京と大阪を、ニューヨークとロンドンを物理的に移動している。人々は、現代社会は変化が速いなんていっているが、本当だろうか?所詮はコップの中の嵐なのでは?アルビン・トフラーが「第三の波」を上梓してからのこの約30年間、まるで社会的進歩が凍り付いているようだ。

しかし、希望を捨てるのはまだ早い。革命の準備は確実に進んでいる。Second Life は新しい世界への第一歩だ。非言語的情報の通信手段と機械翻訳技術の発展。これが、コミュニケーションの物理的障壁を事実上取り除き、国境のない世界を作り出すだろう。それが第三の波が世界を覆い尽くした社会である。

P.S.

はてブで「通勤という、わずか100年ほど前に始まった奇妙な習慣」という部分に疑念の声があった。
たしかに100年という数字には大きな意味がない。ただ、そのあたりから、先進国では大都市のオフィスへの大規模が通勤がはじまったのかな、という感覚にすぎない。多分、本格化したのはさらに後だろうけど。

ちなみに、Wikipedia「交通」等の項目によれば、

ということになっている。夏目漱石の小説の舞台は20世紀初頭だが、その頃の東京で路面電車で通勤する人の姿が描写されていたと思う。