論なき国の衰退

行天豊雄(ぎょうてんとよお)氏は 1931 年生まれ。東京大学経済学部卒。大蔵省の国際金融畑を歩んだ国際通貨の専門家である。私が 1994年に東京銀行(現在の三菱東京 UFJ 銀行)に入行したとき、東京銀行会長であった。確か入行式で訓示を受けたような記憶がかすかにあるような気がする(あるいは記憶違いかもしれない)

バブル崩壊後の日本経済の長期低迷を嘆いて書かれた「論なき国の衰退」。読み始めると実に的確な内容であり「現在(2007年)の状況分析か」とおもいきや、2001年に書かれた文章だと知り、がっくり。日本は、小泉改革にも関わらず、ほとんど眠ったように変わっていない。この論文自体は、産業革命から現代に至るまでの世界の歴史を分析し、その大きな潮流のなかで日本を位置づける壮大なものである。90年代以降の日本の問題点を指摘した部分が特に興味深いので、以下長くなるが引用する。

4.日本のジレンマ
さてこのような世界環境の変化の中で日本経済はどのような問題に直面しているのであろうか。
30年代以来の発展を支えてきた日本経済体制の主要な特色は80年代になって変化した環境に適合できないことが遂に明らかになった。尤も、不適合の悩みは日本に限ったことではない。東アジア諸国は特に日本との類似が強いし、米国も欧州も多かれ少なかれ日本と同じ課題を持っていることを忘れてはならない。ただ日本の場合はその特色が他に例を見ない成功体験に支えられて、政治家、経営者、消費者、メディア、学者という殆ど社会全員の思考体系として定着していたことが問題の難しさを増しているということなのである。既に述べてきたように世界経済の新秩序を支えているのは競争、透明性、説明責任、自己責任という諸原則である。国家・企業・個人はこの原則を達成することが生存と勝利の前提であることを認めている。日本にとっての問題は、これらの諸原則に合意するということが従来の日本的原則の殆ど全否定に等しい大転換にならざるを得ないということなのである。現在日本で誰もが口にする改革ということの内容は実はとてつもなく根本的で広汎で従って極めて困難な大事業なのである。このことはまず徹底的に認識される必要がある。「喪われた十年」の失意の中で日本人の殆どが何かを変えなければならないという意識を持っている。しかし、変えるということがどんなに大変なことなのかという認識はまだ決定的に不足していると言っていだろう。

深い危機意識が行間ににじんでいる。

このことは特に大企業経営の改革について顕著である。日本では、「既に」と言うべきか「依然として」と言うべきかは別として、世界経済の新原則(日本では往々にしてそれが米国による意図的な経済戦略ででもあるかのように誤解されている)に対する反発がある。企業の社会的責任とか、雇用安定・人間性尊重とか、社会秩序の維持とか、中には米国の陰謀の打破とか、様々な論拠が掲げられている。しかし率直に言ってこれらの反発の殆どは過去の成功体験の惰性か既得権への執着に発するものと言って良い。現在の大企業の苦境はその経営が新原則に転換したから発生しているのではなく、転換していないから生じているのである。何故日本の大企業の経営が悪化し、次々と外資の傘下に入っているのか、何故大企業が企業ぐるみの不祥事件で社会的責任を問われているのか、何故大企業から優秀な人材が外資系企業に流出しているのか、何故株価が低迷しているのか。それは決して日本の大企業が良き伝統を捨てたからではなく、伝統を改革しないから起っていることなのである。新原則への移行に反発する大企業経営者の多くが依然として犯している過ちは、自らの仕事に対するインセンティブが旧秩序の時代から変わっていないことに気付かず、従って従業員達も昔と同じインセンティブを持っている筈だと思い込んでいることにある。彼等の反発の動機は変革の痛みから生まれているのではなく、変革への怖れである。

行天氏はこの文章を書いたときすでに70歳。東大-大蔵省-銀行会長と絵に描いたようなエリートコースを歩んだ。戦後の日本的原則を作り上げてきた人と言ってもいい。しかし、それが新しい世界経済の新秩序である「競争、透明性、説明責任、自己責任」の諸原則にとって代わられようとしていると言ってはばからない。その頭脳の柔軟さと勇気には驚かされる。日本の大企業の経営者の旧態依然を切って捨てているが、自らがその昔そうした大企業の一経営者だったのだから。

日本は、巨大な自己満足のぬるま湯に浸っている。だから梅田望夫氏が「サバイバル」という言葉を持ち出すと袋叩きにされてしまうのだ。日本に住む同胞たちに迫り来る危機を知らせようとしているだけなのに。

日本は、かつて内向きの思考によって近代化に失敗し、植民地化された19世紀の中国や韓国と同じ道をいまたどろうとしているのか?