爆発的に超分散化するデジタル情報の遠心力
池田信夫先生がいいことを言った。
「監視社会」の恐怖を煽り、「プライバシー」なる幻想を振り回すおめでたい人々は、全知全能の「ビッグブラザー」が国民を監視していると思い込んでいるのだろう。しかし年金問題で露呈したのは、ビッグブラザーのお笑い的な実態だ。むしろ問題は、社会に流通する膨大な情報をだれも管理できなくなっていることなのだ。
まさしくそのとおり。IT ゼネコンに手玉にされている日本政府の情報処理能力は非常に低い。「1984年」のような監視社会を作り出すのは技術的に無理。これは、essa 氏の次のエントリとつながっている。
我々が「公」という言葉で思い浮かべるものは、20世紀的な私的領域の論理に侵蝕された「公」であり、実はそれはむしろ「私」なのである。新しい「公」は本物の「公」であり、別の論理によって動く。「私」が持っていた悪の性質は持ってないが、同時に「私」が持っていた制御可能性も失っている。制御不能な善である「公」というものにどう備えるのか、という問題だと思う。
最近、私は、半ば本気で Google (あるいは Google 的な何か)が21世紀の世界政府になるんじゃないかと思い始めている。なぜなら今の民族国家は情報処理能力という点でなにか越えがたい欠陥を抱えているような気がするからだ。近代化のプロセスで、封建的君主制が議会民主制にとって代わられたのと同様の政治的な変化が起こる可能性がある。
P.S.
池田氏のエントリは、晩年のドゥルーズが出版した「記号と事件」がわかりやすく、ドゥルーズの入門書となりうるという話だった。ドゥルーズとガタリの共著の「アンチ・オイディプス」は大学時代に大いに興奮して読んだ。内容はよく理解できないのに、何か躍動感を感じさせる不思議な文章であった。「欲望する諸機械」というキーワードはなんとも刺激的だった。