日本にこだわる理由
私は、今年に入ってから何かにとりつかれたように「日本、日本」と言っている。「そんなに日本が嫌なら出て行けばいいだろう」と思うかもしれない。しかし、事はそんなにカンタンじゃないのだ。
日本国憲法は、居住の自由を保障しているが、それはあくまでのも日本の領土の中だけのことだ。何世紀かしたあとの人々は不思議に思うかもしれないが、21世紀初頭の人類社会に、本当の意味で居住の自由はない。たとえば日本人がアメリカで働いたり、アメリカ人が日本で働いたりすることは、簡単にはできない。外国人はある国にながく滞在するとき、かならずビザ(visa)を取得しなければならない。世界には200近い国があるようだが、ビザなしで長期滞在が可能な国があるとは聞いたことがない。(もしご存知ならぜひ教えてください!)
外国人は、ビザを取るときにそれはそれはありとあらゆる嫌がらせをその国の入管(移民局)から受ける。いまどきどの国もたいていは立派な憲法を持っていて、人権をきちんと保障しているものだが、それは基本的には外国人には適用されないのだ。だから基本的に入管(移民局)はやりたい放題だ。制度は前触れもなくコロコロ変わる。暴言を吐いたり賄賂を要求する入管職員もいる。私は、外国を放浪しているとき、いろいろ嫌な思いをしたが、話を聞く限り日本の入管も相当ひどいらしい。
いまは、確かに短期滞在なら簡単にできるようになっている。観光客に対してビザ取得義務を免除する国も多い。だから、外国に住もうと思ったことのないひとたち(たいていの日本人はこれに該当するだろう)は、外国に長く住むむずかしさを軽く見る。その気さえあれば、いつでもふらり出かけていって、どこへでも働けると考えている人たちも多いかもしれない。いやいや、とんでもない。外国で働くのには、仕事先を見つけることより、ビザを取ることのほうがよほど難しいのだ。
どうやったら長期のビザ(就労ビザや永住権)が取れるのか。これは簡単で、その国にとって、あなたにビザを与えることが経済的にトクになるかどうか。はっきりいってそれだけのことが多い。税金をたくさん払ってくれるか?自国民の雇用を奪わないか?新しいビジネスを興してくれるか?自国民を大勢雇ってくれるか?社会保障費を使いすぎないか?まったく、身も蓋もない。文化も言語も歴史も違う人間を受け入れるかどうか判断するには、カネという世界共通語で考えるしかないということだろう。国境を跨ごうと思ったら、カネがもっとも重要である。逆にいえば十分なカネさえあれば国境はないも同然と言える。
やれやれ。詩人ではないが、鳥になりたいよ。ある意味、国境を以て人々を囲い込む主権国家という概念ほど壮大なファンタジーはない。地球があって、ヒトとよばれる生物種の数十億の個体が地上に生息している。たったそれだけのことなのにね。人々が自由に動き回れたら、どれだけすばらしいことだろう。僕なら、いますぐにでもシリコンバレーに飛んで行って働くのに。シリコンバレーに飽きたら、また別の国に移り住むのに。地球は、直径1万キロ余の小さな惑星なんだから、もっと自由にやっていいんじゃないかな。
笑うかい?確かに。2008年の今日、突然国境を強制的に廃止して、人・モノ・カネの行き来を完全に自由化したら、大混乱が起こるだろう。多分2億人くらいはアメリカに押し寄せるんじゃないか?(笑)そして、やっぱり5000万人くらい中国と北朝鮮から日本に押しかけてくるかもしれない。各民族は国境の壁に守られつつ、それなりの秩序を築いているから、まったくの異文化を背負った集団が突然かつ大量に押し寄せるのは、ある種の悪夢だ。
でも、国境コントロールを平和的に廃止した例もある。EU がそうだ。労働市場が EU 加盟国間で相互開放されている。やはり EU の場合、同じヨーロッパの歴史を共有しているという文化的な親密さが大きかったか。国境を完全開放するには、国同士の信頼関係をよほど深いレベルで醸成しないかぎりは難しいかもしれない。
結論:21世紀前半の人類社会で、実質的な居住の自由を得るためには、諸国家に喜ばれる人材(≒カネを持つこと)になることが早道。完全な自由往来の時代は、政治的な理由により、まだまだ先か。