自分は無力だという信念

なんでも最近、日本は格差社会に突入しているそうで、正社員になれず安い賃金で苦しんでいる若者たちが怨嗟の声を上げているらしい。だが、私にはどうも彼らのいっていることは頭では理解できるものの、うまく共感できなかった。

それがどうしてなのか、教えてくれたのが essa さんの最近のエントリ。

戦争と製造業と官僚制のみがリアルというパラダイム

essa さんの言うことすべてに納得がいかないという、あるブロガーがこんなことを書いていたそうだ。

今後の社会が個人の才覚で切り抜けられるような社会になるなんて、とんでもない夢物語であって、そんなことを若者に信じさせて、さて彼が40過ぎても何も「価値」生み出せなかったら、誰が面倒をみるのだ?

まず、そこのシステム、ベースを作ることがなによりも先だろう。

アンカテの中の人が書いたことは、下手すると完全雇用にあぶれた人にたいして、個人の才覚で、それのみでなんとかせい、と突き放すようなものになりかねないのだ。

頼るべきは個人の才覚ではなくて、社会政策、労働政策。

完全雇用が難しいなら、究極的には雇用されている人から分けてもらう以外にはない。ベーシックインカムにせよ、ワークシェアリングにせよ。

アンカテの中の人、のような人の取り分を少しづつ下げていくしか道は残されていないと私には思える。

このブロガーは「戦争・製造業・官僚制」こそが世の中の基本的な仕組みであり、ネットでそれに反する動きがあっても、まもなく「戦争・製造業・官僚制」の枠組みのなかに収束するだろうと信じているので、その反対の動きを予想している essa さんのいうことにいちいち合点がいかないのではないかと、essa さんは分析する。

「戦争・製造業・官僚制」とは、「資源は有限で、誰かが使ったら他の人は使えないというゼロサムゲーム」といいかえてもいいだろう。このブロガーの信念は、「社会を支配するルールはゼロサムゲームであり、自分は弱いので、社会的正義に照らして、公的な強制力(政府)によって、強いものから弱いものへ価値が再分配されるべきだ」というものではないだろうか。これは典型的な左翼的な考え方で、昔から脈々と続いている。

私は、基本的に「各人はそれぞれ異なった潜在能力を秘めていて、各人がそれをなんとか社会で表現しようとする努力と、社会的・技術的基盤が合致したときに、新しい価値が創造される。それこそが、社会が変わっていく原動力である」という信念を持っている。であるから、公的な強制力が行うべきことは、持つものから持たざるものへの強制的な価値の移転でなく、個々人の潜在能力が、他者の喜びを増やす方向で開花するための環境整備であるべきだ、ということになる。

この両者の考え方は、「個人は無力な社会の歯車か、それとも可能性を秘めた存在か」という根本的な価値観の違いから派生して、それぞれ精緻な信念の体系(パラダイム)を作っているので、互いに話がかみ合わない。どちらが正しいか、という問いはあまり意味はないだろう。立場によって答えが変わってくるだけだ。

これは、まあ宗教のようなものだろうね。キリスト教イスラム教のどちらが正しいか。おそらく、その問い自体に意味がない。信念も宗教も、信じるか信じないか、ただそれだけだから。

最後に、私の立場からの見解を述べておこう。純粋に感覚的に述べると自分が「無力な歯車」と信じるより「可能性のある存在」と信じることのほうがネアカで、気分がいい。たとえ、可能性の開花に失敗しても、そこでようやく「無力な歯車」に陥るだけのことだ。最初から自分は無力だと信じていれば、そこから自力で抜け出す努力も放棄してしまうことにならないだろうか。だったら、可能性があると信じたほうがいいと思うのは、私だけだろうか。(といっても、やはり「無力派」の人たちは納得しないんだろうな・・・とほほ)