「自分のまわりはアホばかり」症候群

最初、id:shi3z天才コンプレックスが出てきたとき、「ああ、世の中には、似たことを考えているひとがいるものだな」と思いつつも、自分のあまりにも深い痛点に触れるために、全力でスルーしようとした。しかし、今日、NBOnlineコンプレックスこそ我が友をいう記事を目にするに至って、どうにも何かを書かずにはいられなくなった。id:shi3z が言うとおりに、こういう個人的なことは、胸にそっとしまっておくべきなのかもしれないが、しかし、やはり彼がそうしたように、不特定多数に対して、叫ばなければどうにも自分自身が救われないということはあるのかもしれない。そう思って、はてなダイアリーに書く。私を知らない人にとっては何の価値もないつまらない雑文であるので、興味のない方は、ここで引き返してもっと有益なページを閲覧されたい。

私は、小学校に上がるまえに、虚数 i の概念を理解してしまった id:shi3z ほどの早熟さはなかったにしろ、小学校では教師が扱いに困る程度には早熟な子供であった。学校の授業は、拷問かと思うほどつまらなかった。簡単すぎて、である。自然、私も知識は学校ではなく、その外で 、書籍や大人から聞く話から、吸収するようになっていった。初めてパソコンに触ったのは、中1のときではなかったかと思う。PC-6001mkII という Z80 コンパチの CPU が載った 8 ビットマシンであった。BASIC をいじるのもそこそこに、もっと速く実行できるマシン語に興味が移行していった。私は、なぜかゲームに興味が持てず、ディスアセンブラとかアセンブラとか、そういうプログラム開発ツールばかりを作っていた。C 言語にあこがれたが、処理系は手に入らなかった。自分でいつか C 言語を作ってみたいとそのときは思ったが、8ビット PC ではエディタを作ることさえ、大変な労力で、それは夢また夢だった。そこまでは、他のいまや一流のハッカーになった人たちと似た経歴だったが、私は、彼らほどの資質も根気もなかったのだと思う。一通りやっただけで、PC に向かうのがいやになってしまったのだ。「このままでは、機械ばっかり相手にする人間になって社会に適応できなくなってしまう」と本気で思って、パソコンからすっぱり手を切ったのが、高2のころだったか。パソコンや周辺機器を一切合財、中古屋に叩き売ってしまった。

私は、実は、中学受験をしたことがある。小学校があまりにもつまらないので、もう少し知的な挑戦をしたらよかろうと、母が勧めてくれた四谷大塚という首都圏では有名な進学塾に通い始めた。予習シリーズという教科書があって、これはよくできていた。勉強するのは楽しかった。東京まで片道2時間かかる田舎に住む私には、初めて触れる新鮮な知的刺激だった。四谷大塚というところは、徹底的な実力主義で、テストの成績によって通う校舎まで決められる。私は、最後は上から2番目の御茶ノ水校舎で小学6年生の課程を終えた。そして、運良くも、開成中学校に合格した。開成は中高一貫校で、私が入学するころ、開成高校の東大合格者数は全国一位だった。あれから20年以上たった今日、いまだに全国一位だ。この学校へはいろんな想いがあるにしろ、まったくたいした学校だと思う。

だが、私は、開成中学を2年生の終わりに辞めてしまうのである。中学中退。ははは。なかなか素敵な経歴ではないか。なぜ辞めたのか?結局のところ、小学校での生活とのギャップに耐えられなかったのではないか?小学校では、僕はずば抜けた優等生であったのはまちがいない。そもそも私が育ったのは、茨城県の郡部で、大学に進学する若者もまばらな土地柄だったのである。ある意味に典型的な田舎秀才であった。それが、開成には、ずば抜けて頭のいい連中がキラ星のようにいた。正確には、頭がいいかどうかは別にして、学校のテストで高得点を取る技術に掛けては、超一流の連中ばかりだった。ずば抜けた優等生は、単なる凡才に変わった。その状況の激変に適応できなかったのだ。

私は、自分が天才と呼ばれたことはないけれども、秀才だと言われたことは無数にある。そういわれることに関しては複雑な思いがいろいろある。だから「秀才コンプレックス」を持っていると言ってもいいかもしれない。生まれた環境を悔やんでもどうにもならないが、しかし、いまでも私が東京の、普通に中学受験をするような地域に生まれていたらどんな人生を送っていただろうか、と思うことがある。そうすれば、小学校でも自分の話し相手になる級友を比較的簡単に見つけることができたのではないか?そうすれば、茨城の田舎で小学校の6年間、「自分は特殊な人間なんだ」と思い続けて育つこともなかったかもしれない。「自分のまわりはアホばかり」という環境が、私が生まれて最初に出会った社会的状況であった。どうやら、私はその状況に過剰に適応してしまったらしい。もう40に手も届こうかというこの歳になっても、その呪縛から逃れられないのだ。

開成中をやめてその後の4年間は悲惨だった。公立の中学を経て、茨城の片田舎の公立高校に入った。悪い学校ではなかったが、眠ったように退屈だった。私は、高校2年のときは、すっかり何もかもうんざりして、学校にあまり行かなくなった。本気で学校を辞めて、北海道の牧場にでも行って働こうかと思ったこともある。だが、紆余曲折を経て、大学に行くことに決めた。

なんで東大へ行こうと思ったのだろうか?きっと開成時代の記憶がそうさせたにちがいない。「あの連中を見返してやる」という復讐心に似た執念があったことは否定できない。私のいた公立高校は、東大になんてまず滅多に合格者を出さないレベルの学校だったから、東大に行こうというのはやや気違いじみていた。高校3年生の一年間、私は、予備校にも行かず(行きたくても田舎過ぎて行けないということもあったが)一人で黙々と勉強をつづけた。ここでも、高校の授業は、ごく一部の例外を除いてまったく役に立たなかった。簡単すぎて、である。あまりに孤独で狂いそうになった。こうやって書いてくると、いかに自分がアホかよくわかるね。あのまま開成に通い続ければ、仲間はいくらでもいたはずだったのだ。あの学校では、東大受験がデフォルトで、それ以外の学校に行く連中は落ちこぼれか、変わり者と思われていたのだから。「自分のまわりはアホばかり」症候群である。つまり、そういう状況をひどく憎みながら、それでもそうでないと自分の心が落ち着かないという一種病的な心理状態があったのだと思う。

結局、運良く(まったくそうとしか思えない)東大の文科2類に現役で合格した。文科2類というのは、3年生のときに経済学部に進学するコースである。私は、子供のころずっと理系人間だとおもっていた。算数・理科が僕の一番好きな教科で、国語がいちばん苦手だった。でも、思春期に入ってから、人間の心理や社会についていろいろ考えるようになった。高校で唯一好きだった世界史の先生が、マルクス唯物史観を信奉していて「経済が社会を動かしているんだ」と教えてくれた。それから、経済学を学べば、歴史や社会を理解することができるんじゃないかと思うようになったのだ。それでも、数学や物理のような、この自然界の原理を探究する学問に対する興味も尽きなかったけれども、数学や物理の成績は自分が思うほどはよくはなく、量子力学の数式はいつまでたっても理解できるようにはならなかった。その後、大学に入って数年間のうちに、自分の数学的才能の限界に気づかないわけにはいかなかった。結局、子供のころの自分がそうであってほしいと願うほどの資質が、自分には備わっていなかったのである。

それでも「理系崩れ」の私は、いろんな分野がある経済学の中でもいちばん数学を使うミクロ経済学を専攻した。基本的には、多変数関数の最大化最小化問題を解くので、偏微分ばかりだった。やれやれ。池田信夫が言うように、そんなものは現実の経済問題を考えるには何の役にも立たないのに。そのころのミクロ経済学自体が、物理学にあこがれつつもそれをやるだけの才能のない学者たちによって作られていたのかもしれない。若くてウブだった私は、無い頭を必死に絞って、数学を勉強した。それでも経済学自体は面白かった。いまいちばん自分の身体に染み付いて世界観の一端を構成しているのは、ハイエクの経済哲学かな。ハイエクはいいですよ、ハイエクは。

私は、経済学者になろうと思った。経済学を必死に勉強して、半ばノイローゼになりながら書いた卒業論文は、学年で10人だけの特選論文に選ばれた。その論文というのも、私の指導教員であった伊藤元重先生が、放任主義で知られていたため、私は一人でやるしかなかった。正確にいうとそれはちょっと違うかな。私は「人手不足の経済学」というテーマで論文を書こうと思っていたので、労働経済学の A 教授にときどき、お話を聞きに行っていた。A 先生は、温厚でゆっくりと人の話を聞いてくださる方だった。

東大の大学院にも合格し、後は最後の期末試験さえパスすれば、卒業というある日、私はとつぜん経済学者になる夢を捨てた。このときの気持ちは、高2のある日 PC を突然投げ捨ててしまった日の感覚に少し似ていた。大学時代の最後の2年間、理論的な近代経済学を学ぶ中で、育ってきたある感慨が突然爆発したのだ。「こんな数式ばかりの理論を勉強していて、現実の経済についてなにか言えるのだろうか?それより、社会に飛び込んでその中で経済を学んでいったほうがいいのではないか?」

ただ、最終決断を下すまえに、労働経済学の A 先生の話だけは聞いてみようと思った。ひょっとしたら、経済学に対して別の見方を持っているかもしれない。私の考えも変わるかもしれない。そんな一縷の望みを抱いて、大学の彼の教官室を訪ねた。しかし、彼は不在だった。これで、私の運命は決まった。止めよう。社会に出て働こう。そのなかから何かを学んで行こう。

しかし、こうも思う。現実は、それほどのきれいごとではなかったかもしれない。私は2年間真剣に経済学を学ぶなかで、自分の能力の限界にはっきり気づきつつあった。私は、たぶん経済学で博士号くらいは取れるだろう。どこかの大学の教員にもなれるだろう。しかし、私が当時あこがれたスター経済学者たちのような華麗な論文など一生書けはしないだろう、と。私は、自分が凡人にすぎないことを認めるのが怖かったのだ。自分より優秀なひとばかりの世界に入っていくことが。またしても「自分のまわりはアホばかり」症候群である。

その後の半生は、ここに書いてあるので、万が一、興味があれば読んでほしい。その後も似たようなことは、何度もあった。自分が努力するにつれて、自分の周りの人たちのレベルが上がり、自分が相対的に凡人になり、それが怖くて逃げ出すということを何度も繰り返してきた。

こんなことを長々と書いてきたのは、今また「自分のまわりはアホばかり」症候群ゆえに鬱になり、逃げ出す5分前という状況だからだ。まさに大学4年のあの冬、A 教授の部屋のドアの前に立っていたときのような気持ちだからだ。

私は、1年半前に自分の会社を設立し、以来、実質的にフリーランスプログラマとして飯を食ってきた。スタートは愚もつかない SIer への派遣の仕事だった。新規開発だというのに、なぜか5年前の LinuxPHP を使ってプログラムを書くように指示された。つまりは「アホ」である。その後 Rails を始め、顧客から直接仕事を請け負うようになってから、徐々に付き合う人たちの技術的レベルが上がっていった。去年の暮れから、あるサービスの立ち上げに関わっているのだが、これは非常にチャレンジングな仕事だった。JavaScript で非常に巧妙なクライアント側のプログラムを書かなくてはならなかった。Firefox で動いても IE で動かないということが何度あったことか。SIer をからかっているうちはいい気なものだったが、だんだんプログラミングのターゲットが難しくなるにつれて、焦りを感じ始めた。大学4年の秋、頭をかきむしりながら、無い知恵を絞って卒業論文を書いたときのような気分になってきた。id:amachang をはじめとする、JavaScript 界の若者たちの活躍を見るにつれて、「この手の仕事は自分よりもっと若くて活きのよいエンジニアがすべき仕事じゃないのか」と何度も思った。しゃれた設計ができない自分自身を責める気持ちも強くなった。

当たり前のことだし、何年も前から分かっていたことだが、所詮自分は DHH のような天才プログラマとは違う人種なのだ。Rails のソースを見るとわかるが、実に美しい。そして大量だ。それを DHH はわずかな時間で書き上げてしまったのだ。私など、それを読みこなすことにさえ四苦八苦しているのに。もちろん、プログラムを書くことは読むことより10倍以上時間がかかるものだ。

こんな自分に何ができるのだろう・・・? 何度も自分に自問した。私は、経済学部を卒業した。もともと経済に興味があった。ビジネスの現場を見たいと思って、銀行に就職し、大企業のノリについていけずにすぐに辞めた。いまだって、会社を作って、いちおう建前上は実業家ということになっている。だが、実質的には一プログラマにすぎない。そして、いま、ふたたび自分の知的な能力の限界がはっきり見えている。また逃げ出すのか?しかし、どこに?

大学時代、サークルの女の子と交わした会話を思い出す。私の属していた登山サークルは、いろんな大学の学生から構成されていた。彼女は、偏差値がそれほど高くない普通の女子大学の学生だった。私があまりに能力・能力というものだから、彼女は半ばあきれてこう言ったものだ。「能力ってそんなに大切なものかしら?人間にはほかにもいろんな大切な性質があるんじゃないの?」

私が、こんなにも才能とか能力とか、そういうものにこだわるのは、人間性のそういう側面に心理的安定性が深く依存する精神的なフレームワークを持っているからだ。おそらく id:shi3z も同じだろう。だから、彼の言うことは(もちろん彼のほうが私よりはるかに才能があるわけだが)よく理解できる。しかし、この女子学生が言ったみたいに、それとは別のフレームワークを持つ人たち、たとえば大切な友人や家族・地域社会などの対人関係に自分の価値と精神的安定を見出す人たちには、われわれ(id:shi3z氏よ、勝手に仲間にしてごめん)のような人間の考えていることはよく理解できないにちがいない。

結局、長いような短いような半生を生きてきて思うのは、人間にとって、知性というのは大切な属性だが、唯一重要なものではない、ということだ。人間が、他の動物に対して優位をもっているのは、その社会を作る能力においてだ。たとえ知性があったとしても、それが社会の中で生かされず孤立していれば、何の意味もないのだ。

私には、きっと私のすべき仕事があるのだろう。ある種の人たちほどの能力がなかったとしても。私より優秀なひとたちには、彼らなりの仕事がある。どんな天才も100人分の仕事は同時にできない。その仕事は100人の凡人に担われるしかない。

だから、今度は、逃げずにこの場にしばらく踏みとどまってみるつもりだ。自分より優秀な人たちと交わり、自分に劣等感を感じつつも、自分のすべき仕事を黙々とやりつづけるつもりだ。たぶん、そうし続ける他にこの忌まわしい「自分のまわりはアホばかり」症候群を克服し、より精神的に自由な人間になる方法はないだろうから。