中国とアメリカ

中国とアメリカ。この正反対に見える2つの国は、案外似たもの同士であるような気がする。以前からそう感じていたところ、中西輝政著「なぜ国家は衰亡するのか」にも同様の記述があった。

『このように考えてくると、アメリカ文明に見られる抽象性やドグマ性と北方中国に生まれた中国文明、つまり中華文明に見られる抽象性とドグマ性が、本質的にきわめて似た性格のものであることに納得がゆくはずである。切っても血の出ないような「純化された論理と抽象概念」、さらには自分の文明を地域限定的なものと考えない普遍的世界観において、この二つの国は根本的に共通しているのである』(第5章)

すべてについて大雑把であるということで、中国とアメリカは共通する。中国の道は広くどこまでもまっすぐ続いている。大きければ大きいほどよい、と素朴に考えている。巨大な駅舎や、大学の無駄に大きな門を見るとそれがわかる。中国人は、アメリカ人のように人の目を直視し、はっきり大きな声で話す。中国語は、人称代名詞の体系が単純で、基本的には英語と同じである。(「您」という二人称の尊称があるけれど、日常会話で使われることは少ない)中国人は、外国人をそれほど特別視しない。必要があれば臆することなく、中国語で話しかけてくる。さも相手が中国語を話すのが当然だろう、といわぬばかりの態度で。中国人は個人主義者であり、会社への忠誠心は少なく、転職を恐れない。機会があれば独立し、一国一城の主になる機会を伺っている。アメリカ人と違うのは、家族・親戚とのきずなを非常に重視する、ということくらいだろうか。

中西氏のいうとおり、中国という概念自体が巨大なフィクションである。中国は地域によって言語がまったく違う。(北京語・広東語・福建語などの違いは方言などというレベルでなくまったく異なる言語というべきである)それを漢字という共通文字によってまとめ上げ、中華文明を形成してきた。日本・韓国・ベトナムなどが、土着の文化・歴史・伝統に基づいて自然に国民国家を形成したのとはかなり趣を異にしている。

中国もアメリカも、内部に巨大な多様性を抱え込んでいる。こういう国では、枝葉末節は捨象して、誰にもわかりやすい共通概念を作るしかないのだ。さもなければ、内部の多様な勢力は、互いに協力し合うことができなくなってしまう。作り出された共通概念は、わかりやすさを優先するあまり、人工的で子供っぽいものになるかもしれないが。日本人みたいにわけのわからんものに「わび・さび」を感じている余裕など、これらの国々にはないのだ。

私はどうもアメリカや中国という国を相手にするのが、苦手らしい。私はこれらの国に対して、人工的で乾いた印象を抱いてしまうのだ。それは、日本という、あまりに濃密な土着文化を持った国で生まれ育ったことと無関係であるまい。だからこそ、私は、アメリカでなくカナダを選び、中国でなくベトナムを選んだのかもしれない。