水村美苗「日本語が亡びるとき」

水村美苗は、フランス文学が専門の学者なのに、文体を真似て書いた「続明暗」は、素人目にはどうも見ても夏目漱石本人が書いたとしか思えないすばらしい出来栄えで、私は強い衝撃を受けたことを覚えている。イェール大学大学院仏文科博士課程修了の経歴から推測すれば、英語とフランス語にはきわめて堪能であると考えられる。彼女の言語センスからすれば、おそらくはネイティブスピーカー以上の実力があるだろう。

その水村美苗が新作のエッセイを出版した。題名は「日本語が亡びるとき」。
私は、ベトナムにいるからまだ読んでいないが、梅田望夫が手放しで絶賛している。

水村美苗「日本語が亡びるとき」は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う。

一言だけいえば、これから私たちは「英語の世紀」を生きる。ビジネス上英語が必要だからとかそういうレベルの話ではない。英語がかつてのラテン語のように、「書き言葉」として人類の叡智を集積・蓄積していく「普遍語」になる時代を私たちはこれから生きるのだ、と水村は喝破する。そして、そういう時代の英語以外の言葉の未来、日本語の未来、日本人の未来、言語という観点からのインターネットの意味、日本語教育や英語教育の在り方について、本書で思考を続けていく。

梅田望夫は、長くアメリカ・カリフォルニア州のシリコンバレーでビジネスコンサルタントとして活躍してきた人物だ。本人は、英語は決して得意ではないと言っているが、英語がこの世界で果たしている役割には、十二分に自覚があるはずだ。長く海外に住んで、仕事をしていれば、英語がどのように人々に受け入れられているか、考えずにはすまないからだ。私は、カナダに4年、韓国と中国に半年ずつ、そしていまはベトナムに滞在しているので、英語については複雑な思いがある。それゆえ、梅田望夫の言うことも、まだ読んではいないが、水村美苗が日本語に持つ危機意識も理解できるような気がする。

私は、ベトナムに来て、若い人たちがみなごく自然に英語を話すのに驚いた。残念ながら、発音はかなり訛りが強いのだが、書く文章は実に立派である。ベトナムでは、90年代半ばから、小学校から英語を教えるようになったそうだ。大学でも授業を進めるには英語の資料が必要だろうし、卒業後も給料のよい外資系企業で働くためには英語の技能が必須であろう。そのため、ベトナム若い人たちは英語を熱心に学び、実際に実用レベルまで上達する。(ベトナム人が英語が上手いもう一つの理由としては、ベトナム語がアルファベットで書かれていること、語順が英語に似ているというのも助けにはなっていると思う)

インド系の IT 企業で働いていたときも、当然ながら、インド人のエンジニアたちは英語が堪能であった。話す言葉は訛りが強かったが、書く文章はアメリカ人と変わらないレベルの人たちも多かった。インドでは、すでに知識人たちが自分たちの母国語(ヒンディ語テルグ語ベンガル語タミル語等)で文章を書かなくなりつつあるのが、大きな問題になっているそうだ。インド人の場合、英語で書くことによって、国際市場で自分の本が売れるだけでなく、インド国内で、他の母国語を持つインド人に情報を伝達するにも、英語が一番効率的だからだ。

ヨーロッパ人やラテンアメリカ人たちは、最近は自分の母国語と同時に英語でも歌を歌う。見た目は白人で、アメリカ人と区別がつかない彼らが流暢な英語で歌を歌えば、世界的な大ヒットになることも多い。自分の世界市場にアクセスできるというのは、特に小国出身のアーティストにとっては、大きな魅力だろう。

ベトナムやインドでは、私の知る限り、コンピュータはすべて英語版の OS を使っている。ヒンディ語版やベトナム語版の Windows なんて見たことがない。

インド、ベトナムスウェーデンアイルランド・・・こうした国々では、すでにずっと昔から水村美苗のような知識人がどうやって自分たちの言語を守るべきかという真剣な議論をしてきただろう。なぜなら、母国語だけではすでに経済がなりたたなくなりつつあるから。

一方、日本はどうか。

日本人は、非常に外国語が苦手な民族なのは間違いない。東京で、通りすがりの外国人に平然と英語で道順を教えることができる日本人がどれほどいるだろうか。今日会ったフランス人は「今年、東京を訪れたが、日本人に道を英語でたずねるとみんな逃げていくので困った」とこぼしていた。

いままで、日本では、英語が話せなくても生きるうえで何の支障もなかった。大学教育も日本語だけで完全に行える。日本語のソフトウェアも充実している。無理に外資系企業に行かなくても、よい待遇の日本企業はいくらでもある。

思うに、日本では、英語はできたらいいな、という程度の憧れの対象であり、それが話せなければ、今日飯が食えないという必需品ではないのである。だから、日本の英語学校の広告はどこかチャラチャラしているのである。まるで海外旅行の延長みたいである。

上の梅田望夫のエントリに対するはてなブックマークが興味深い。

  • ラテン語中南米の言葉だと思っている人がいっぱいいる国に英語を普及させるなんて夢の夢。植民地にされたら別かもしれないが
  • アメリカが没落しても英語の優位が続くかどうか。日本国が続く限りは、日本語が亡びることはないだろう。
  • こういうの100年くらい前からいわれてるよねwww
  • 英語と日本語を日常的に使用していることを前提に書評が進められている感じがする。日常的に日本語のみしか使ってない人にとっては「心の叫び」は届かないのでは

この手のコメントがずらりと並んでいる。梅田望夫は、率直な物言いのためにある種のアンチをひきつけてしまうことを差し引いても、なんとまあ、能天気なことか。断言してもいいが、海外で生活したり、日本で日常的に外国人と接触を持ったことのある人たちではないだろう。

私は別に彼らを批判しているわけではない。むしろ、母国語だけで生活できたということは、非常に幸福なことだったのだ。こういう人たちを守り育むことができた日本という国の懐の深さに感動さえ覚える。

しかし、30年後はどうだろうか?
50年後は?

おそらくは水村美苗の懸念はますます現実化していくだろう。そのための準備はいまから始めるべきということなのかもしれないが、日本の一般大衆が事態を飲み込むのにはもうしばらく時間が要ることだろう。出版が早すぎた本。おそらく30年後の人々がその先見の明に驚くような、そういう種類の書ではないかと想像する。