なぜ日本の大企業が嫌いなのか

心に引っかかるエントリ。

これはつまり「わざわざ組織外のコミュニティに出て行かなくとも、(一般的な人には)十分に刺激的でバラエティに富んだ日常が用意されている」ということに他ならない。


典型的な日本的な大企業というのは、知らない人が言っているほど均質的でも退屈な空間でもなくて、むしろ「総花的」とも言える日本企業特有のビジネスの幅の広さと相まって、社内で出会う人材の方がよっぽど面白い人が多かったりもするのだ(もともと優秀な人が多いというのもある)。


僕自身がそれ(のみ)で満足しているわけではないけれど、それでも非常に魅力的な人たちに出会えることもまた事実だし、これこそが大企業の面白いところだ。師匠が僕に「大企業にはいろんな人がいるから見てこい」と言ったのも多分そういう理由だったのだろうと思うし、先輩が「人の厚みを自分の利益と考えられるか」だと言ったのもそういうことだろうと思う。


日本企業が人材をつなぎ止めておく力というのは、案外こういうところにもあったりするわけで、これこそが「comfort zone」なのだ。良くも悪くも。

バブル時代の最後の頃、就職活動したとき、会社訪問をすると、リクルータと呼ばれる若手の先輩社員たちは、こんな感じのことを言っていたなあ。(関係ないけど、あのころは「就活」なんて言葉はなかったぞ。誰もが省略せずに「就職活動」と呼んでいた)

会社には面白い人たちがたくさんいると。いろんな仕事ができると。さまざまな可能性があると。

でも、それってしょせんは箱庭の世界じゃないの?とそのとき思ったし、いまもそう思っている。人工的に作られた楽園。竜宮城のようなもの。どんなに優秀な人たちだとしても、そんな箱庭の世界で満足し、そこから出て行こうと考えない人たちには、まったく魅力を感じない。

たとえば、アメリカの大企業と比較したとき、日本の大企業にも、大企業の特徴として共通する部分はたくさんある。官僚主義がはびこりやすいとか、社内政治に人々が没頭するとか、改革に対して抵抗が多いとか。

ただ、こういう「ゆるい」感じはおそらくアメリカの大企業にはないと思う。アメリカに限らず、世界のたいていの大企業がそうだ。大企業に集まる人たちは、もともと一流大学出身の優秀な人たちが多い。彼らは、普通は自分のキャリアの成長を第一に考えており、機会があればためらわずに転職する。自分の会社を一種のコミュニティに見立てて、その中ですべての人間関係が完結することに満足を見出す人たちは、まず日本にしかいないと断言する。

普遍性に憧れを持つ私は、日本しか通用しないことが嫌いなのだ。たぶん。

日本の大企業は世界のなかできわめて特殊な統治原理を持っている。私には、まるでシロアリの社会のように異質に感じられる。私が、興味をもつのは、日本の大企業はこのやり方をこの先も続けていけるのか、ということだ。

日本の大企業の統治原理は、日本文化に深く依存している。では、外国人の社員が増えたとき、このやり方を続けていけるのか?外国人の社員には、日本語を覚えさせ、日本文化に馴致させ、実質的に日本人にしてしまうことで対応するのか。それとも、外国人にはかれら自身の文化を維持させたまま、英語または彼らの言葉でコミュニケーションして、仕事だけしてもらうような体制を作るのか。それとも、そもそも外国人は、日本人のコミュニティである日本の大企業には入れないつもりなのか。

どうなるのだろうか。この先の日本の大企業の対応が楽しみである。