農村滞在

ニャットさんの故郷は、バリアブンタウ省のビンチャウ(Binh Chau)にある。ニャットさんのおばあさんが重い病気を患っていて、そのお見舞いに行くというので、私も一緒についていくことになった。

サイゴンからビンチャウまでの距離は120キロくらいだが、バスはのろのろと進み、5時間くらいかかった。バスを降りたところは、家もまばらな田舎道。そこから、小さなわき道に入る。

道は、まだ未舗装で、ところどころ雨で崩れていた。畑や田んぼや林が、視界のかぎり続いている。工場のような、近代的な設備はどこにもない。牧草地では、大きな赤い牛が、けだるそうに草を食んでいる。

行きかう人たちは、みなニャットさんを知っていて、懐かしそうな顔を見せた。ニャットさんも笑顔で返事をした。

10分くらい歩くと、畑と田んぼの真ん中に、小さなコンクリート製の家が見え始めた。これがニャットさんの実家であった。私たちが近づくと、お父さんとお母さんが家の中から、現れた。久しぶりに息子に会う喜びに満ちた表情であった。鍛え上げられた筋肉と褐色の肌をもつ小柄なお父さんは、ニャットさんを軽く抱きしめ、それから私の方に振り返って、握手をしてくれた。

ニャットさんのおばあさんは、離れの小屋に住んでいる。ニャットさんと私は、おばあさんが休むその小さな小屋を訪れた。おばあさんの隣で、ニャットさんの伯母さんらしき人が、おばあさんを介抱していた。おばあさんは、しわだらけの身体をさらに小さくして、身体の痛みを耐えている。漢方薬のような鮮やかな緑色の軟膏が、背中一面に塗られていた。

おばあさんは、しばらく背中を向けて横たわっていたが、ニャットさんが、外国人の友人を連れてきたと告げると、おばあさんは、律儀にも上着を羽織って、ベッドの隣にあるハンモックの上にこしかけた。そして、ニャットさんと私の私たちの手をとって、顔をしわくちゃにしながら、何事かをつぶやいた。

私は、厳粛な気持ちでその小屋を後にした。日本だったら、絶対に病院に入院しているような容態である。だが、ここは、おばあさんが、長い間、仕事と生活をしてきた土地である。自分の子供たち・孫たちは、朝も夜も見舞いに来てくれる。おばあさんの命はもう長くないのかもしれない。大病院の無機質な病室で、見慣れない機械に取り囲まれて、孤独な入院生活を強いられるのと、医療はほとんど受けられないが、この小さな小屋で暖かい人々に囲まれて暮らすのとどちらが幸せなのか。人が死ぬことを「土に還る」と表現することがあるが、電気のほかには文明の利便がほとんどないこの農村で死を迎えるのは、まさしくその表現のとおりであるように思われた。私には、おばあさんの命は、いままさに朽ち果てようとする古木のように感じられた。農村では、身体が土に還れば、それは肥やしとなって、再びほかの生命を育むことになる。ニャットさんの家では、2歳と4歳の小さな従兄弟たちが遊んでいた。去り行く命と、これから育っていく命。両者が自然に共存していた。死は、生命がもつ自然な一過程なのだ。死が生から隔離されて、必要以上の恐怖の対象になったのは、病院をはじめとする文明の装置ゆえかもしれないとふと思ったりした。

ニャットさんにトイレの場所を聞くと、トイレはない、という。たとえトイレを作っても、洪水のたびに流されてしまうという。どこでしてもかまわないよ、と彼は言う。そこで、私は、道端で小便をした。土を踏み固めた道には、牛たちの大きな糞が落ちている。だが、日本の農村で体験したような、農家独特の臭さはない。日本の農村ほど人口密度が高くないのかもしれない。あるいは、農業が粗放的で、生態系の一部として完全に持続可能な形でつづいているからかもしれない。この村には、トラクターも耕運機もない。バイクを除けば、すべての作業は人手で行われている。

ニャットさんのお父さんと、近くの川に行った。ベトナム戦争の映画の中では、敵が潜伏していそうな、ジャングルの林の中の小川である。お父さんは、そこに魚を取る仕掛けを置いてあったのだ。残念ながら、そのときは仕掛けに魚は引っかかっていなかった。そのかわり、土手に生えていた竹の子を取って帰った。この竹の子は、夕食のおかずになった。

ニャットさんの家の庭先で休んでいると、ニワトリが3羽、庭をトボトボと散歩している。派手なトサカをつけたオスが1羽、小柄なメスが2羽。この3羽が仲良く一緒に農園をぐるぐる回っているのである。その姿がほほえましく、私はしばらく3羽の散歩姿を目で追いかけていた。ところで、翌朝の朝食は、トリ粥であった。うぶな私は、このトリ肉はどこから買ってきたのかな、とか考えていたのだが、今日は庭先に、ニワトリが2羽しかいない。まさかと思って、お父さんに「昨日はニワトリが3羽、今日は2羽ですね」というと、お父さんはニヤリと笑った。明け方に、何かの動物の悲鳴が聞こえたのだが、このことだったのか。

ニャットさんの実家にいる間、じつにいろんな食べ物をもてなされた。一日4食くらい食べたと思う。蒸し貝・鍋料理・魚料理・トリ粥などである。けっして特別な料理ではないが、ニャットさんのお母さんは料理が上手でとてもおいしかった。「私たちは貧乏なんですよ」とお母さんは、笑顔でいう。たしかに、家の内装は簡素で、居間には、ビニール製のソファーとテーブル、古い CD プレーヤーとスピーカーが古いタンスの上においてあるきりである。だが、久しぶりに故郷に帰る息子をもてなしてあげようという気持ちはひしひしと伝わってきて、私は胸が熱くなった。

モノの多い少ないが貧富の定義なら、ニャットさんの実家は豊かではないかもしれない。しかし、私がこの家で休んでいる間も、ひっきりなしに、近所のおじさんや従兄弟たちが訪れてきて、そのたびに談笑する。ニャットさんのお父さんは、かれらにご飯を食べていけ、酒を飲んでいけとすすめる。このベトナム南部の土地は年中温暖で、一年中何かを栽培することができる。海も近く、魚や貝もすぐに採れる。ある程度の広さの土地があれば、身を粉にしなくても、ある程度の生活はできるそうである。医療や教育などでお金がかかる場面では大変だろうが、空気がきれいで、食べ物が新鮮でおいしく、人々が優しいこの土地の生活には、お金では計れない価値があるように感じた。都会の人間とこの農村の人たちのうち、精神と物質の両面でより豊かなのはどちらなのかは、それほど簡単に答えが出る問題ではない気がする。

写真:農家の庭先

(後日談:12月6日、ニャットさんのおばあさんは亡くなった。私たちがおばあさんを訪れたわずか5日後のことだった。心からご冥福をお祈りします)