豊かな社会でなすべき仕事

私が今日の日本社会で感じるもっとも深い違和感は、人々は本当に必要な労働をしているのだろうか、ということだ。ベトナムのような、まだ貧しい国にさまざまなモノが必要なのは、わかる。だが、日本では、モノはもう必要ないのではないのか?これ以上いったいどういう物質的充足が必要なのだろうか?必要でもないモノを生産しつづけるために膨大な労働が使われているとしたら、それは巨大な社会的価値の損失なのではないか。

経済というと、カネについての話、と思っている人たちが多いけれども、実際には経済はひとびとにとって必要なモノやサービスが生産され、消費される活動を指すのであって、カネは間接的に関わるのみである。逆にいえば、モノやサービスがきちんと生産・消費されている限り、カネなんていらないともいえる。(実際、いくつかの共産主義体制では、カネの流通自体を廃止しようとしたことがあった。この社会実験は悲惨な失敗に終わったが)

以前も主張したが、モノとカネは相性がいい。ニンジンを1本、100円で売る。ニンジンは消費(=食べる)と消えてしまう。これは、きわめて単純明快である。しかし、サービスや情報の取引になると、とたんにこの明快さは消えてしまう。人間が物理的実体である以上、モノの束縛からは逃れられず、そのためにカネは絶対に必要だ。そのため、サービスや情報の取引に関しても、本来はカネとはなじまないのにも関わらず、だましだまし、決済にカネを使ってきたということではないだろうか?

マズローの階層欲求説を見てみよう。これは、生理的欲求・安全の欲求などの比較的単純な物質的欲求が満たされると、愛されたい・認められたい・尊敬されたいというより高次の欲望が現れるようになるという主張である。豊かな日本でいま一番求められているのは、この「愛されたい・認められたい・尊敬されたい」という、より高次の欲望ではないのか。価格を下げてもモノが売れない反面、一部の高価なブランド品は、確実に売れ続けているというのも、人々がモノそれ自体の使用価値ではなく、それを手にすることで得られる自己イメージの向上、というより高次の欲望を重視しているからではないのだろうか。

だとするなら、ブランド品というモノを通じた欲望満足と同時に、モノを介さずに直接、これらの高次の欲望を満たすことも可能ではないのか。具体的には、人々の本来持っている可能性を掘り起こすサービス、自己実現を手助けするサービスなどが考えられる。このように、豊かな社会においては、高次の欲望を直接満たすような仕事がもっとも求められている。ときにはそれはモノ作りの形をとることもあるだろうし、純粋なサービスとして提供されることもあるだろう。

ひとつの具体的なアイディアとしては、寄付ベース社会のインフラとなるようなウェブサイトが考えられる。資金提供を受けたい人は、自分のやりたいことを明記して、ウェブサイトに登録する。ウェブサイトを訪れる人は、その趣旨を見て、好きな人に寄付を行う。寄付の提供を受ける人は、自分のやりたいことに関して説明責任を負う。寄付を行ったひとは、自分の資金がどのように使われ、それが寄付を受けた人のやりたかったことの成功や個人的成長にどのようにつながったか、逐一観察することができる。

このサイトのポイントは、寄付を受けるのは個人であり、寄付を行う動機は人を育てる喜びである。寄付を受ける側も、自分の活動を説明する責任を負うことになるので、甘くはないが、成長するにはいいきっかけになるだろう。

もしこういうウェブサイトがすでに存在しているのなら、ぜひ見てみたいので、お知らせください。