祖母の死

去る1月17日に母方の祖母が亡くなった。94歳だった。

私は、子供のころ祖母と一緒に暮らしていた。祖母は、もともと優等生で抜群に頭が切れる上に、運動万能で、かつ度胸があってきっぷがよいというスーパーウーマンだった。終戦直後に祖父母は川崎に住んでいたが、そのとき田舎への米の買出し列車での武勇伝は何度も聞かされた。私と妹をとても可愛がってくれた。

そんな気丈な祖母であったが、10年ほど前から痴呆症にかかり始め、8年ほど前には自分で日常生活ができないほどになった。結局、特別養護老人ホームに入った。数年前からは、自分の子供の顔さえ忘れてしまったが、眼光は相変わらず鋭く、痴呆症患者のようには見えなかった。脳以外に特に悪いところはなかった。ときどき風邪で入院することはあったが、大きな病気はついぞしなかった。

今月の16日に入院したときにも、そういうわけでさほど注意を払わなかった。翌日、見舞いに訪れた伯父によると、祖母は上機嫌で歌を歌っていたという。ところが夕方、突然心臓が弱くなり、午後10時に眠るように亡くなった。医師が容態急変に気づいて親族に連絡したのが、午後8時半くらい。土曜日の晩ということで、母や、伯父たちはみな酒に酔っていて、車で病院に駆けつけられなかったという。祖母の死の翌朝、私は斎場の安置所で祖母の顔を拝んだが、昔、一緒に住んでいたときの安らかな寝顔のようだった。さまざまな記憶が脳裏に浮かんで、一瞬、目頭が熱くなった。

なんとなくおかしみの残る、祖母らしい陽気で平和な亡くなり方だった。

今回の祖母の死を通じて学んだのは、人の顔がそれぞれ違うように、死もまた違うんだな、ということ。私が小学校のときは、母方の祖父母、父母、そして妹の6人で暮らしていた。この6人が私にとっての本当の家族であった。そのうち、祖父と父はすでにこの世にいない。今回、祖母がその列に加わった。

祖父が亡くなったのは、大学受験を控えた高校3年のとき。肺の病気だったために、死の直前には呼吸を補助する物々しい機械を身体に取り付けていて、とても痛々しかった。祖父は、最後まで意識が残っていて、身体の痛みに耐えながら、苦しんで死んだ。

父は、脳の病気で、徐々に意識が遠くなり、死の直前の半年程度は、ほとんど植物人間のようだった。だから、父とは別れの言葉を何も交わすことができなかった。父はおそらく何の意識もないままにあの世に旅立っていったのだろうが、植物人間状態の父の身体を看取らなければならない家族にとってはつらい日々だった。

祖父と父は、周囲にとってもつらい死だったのに対して、祖母の死は拍子抜けするほどあっさりとしたものだった。年齢も94歳であるから、十分すぎるほど長寿だった。この事実も、この死をほのかに明るく見せているようだ。

死は、誰のもとにも平等に訪れる。ならば、せめて祖母のような平和で安らかな死を望みたいものだ。

祖母よ、心からご冥福をお祈りします。