高齢化社会は本当に悪なのか

World Trend 2005 が指摘するように、内外の専門家が日本の今後の経済成長の最大の制約条件としてあげるのが、少子高齢化の進展である。だが、ここに、素朴な疑問がある。本当に高齢化社会は忌み嫌われるしかない存在なのだろうか、と。

医療の進歩によって、人々の寿命はどんどん伸びていく。向こうしばらくはこの傾向は持続するだろう。一方で、生まれる子供の数は、日本をはじめとする世界の先進国で顕著に減少している。そこで、議論される典型的なオプションは、自国の若者を支援して、出生率を上げるか、人口が増え続けている新興国から若年移民を受け入れるか、の2択である。

だが、この2つの選択肢も実は一時しのぎでしかない。そもそも老人の寿命が延びる一方で、労働人口(たとえば20歳から65歳)の比率を一定に保とうとすれば、若者をより増やすしかない。つまり人口を増やし続けるほかにないのである。

だが、人類が地球だけで生活することを前提とするなら、永遠に人口を増加させることはできない。(まあ、宇宙に移民するというのは、50年もすると真剣に語られるようになるのかもしれないが)そうならば、どこかで人口は頭打ちになる。日本社会が世界の国々の間で、ほぼ最初にこういう高齢化社会に突入しているのであって、30年もすれば、いまは若者の多い国々でもつぎつぎに高齢化社会に突入するだろう。

だから、出生率の引き上げや若年労働力の移民によって高齢化社会を避けるのではなく、いかに快適な高齢化社会を作るか考えていくべきじゃないだろうか。

歳を取るほど、体力や記憶力が衰える。やや悲しい事実だが、これだけなら、経験によってカバーして以前とさほど変わらない生活を送ることができる。おそらく高齢者で一番問題なのは、要介護の状態が長期に続くことじゃないだろうか。先日亡くなった私の祖母は、5年以上、特別養護老人ホームで生活したが、母や母の兄弟たちの経済的負担は大変なものであった。人間をはじめとする生物はいずれ死ななければならない。医学が目指すべきものは、いたずらな延命ではなく、こういう要介護な状態をなるべく減少させるような方向で進歩ではないか。(その意味では各種の痴呆症の解決を最優先するべきなのかも)

高齢者を減らす名案がある。高齢者の定義を変えてしまえばいいのだ。もしいま65歳以上を高齢者と呼ぶならば、それをたとえば80歳にしてしまえばいい。定年制は廃止して、そのかわり高齢者でも働きやすい環境を整える。医療制度は、年齢に関係なく、健康な人が病気の人を支える体制にする。医療の進歩により要介護者を極力減らす努力はするが、もし要介護の人が出たならば、なるべく手厚く介護できるようにする。介護に当たるスタッフに対する報酬を引き上げ、優秀な人材を確保するようにする。こうやって、高齢者と現役世代の双方が社会保障費を負担すればいい。(まあ、言葉でいうのは簡単だ。本当に持続可能な形で予算が組めるかどうかは、具体的な数字をあげて検討する必要があるね)

経済成長の源泉であるイノベーション高齢化社会を両立させるには、われわれ自身が加齢に対する考え方を修正するべきなのかもしれない。つまり学習するのは若い人たちで、一定年齢以上の人たちは学ぶ必要もないし、新しい分野に挑戦する必要もない、という社会通念である。快適な高齢者化社会とは、逆説的だが「弱者としての高齢者」がいない社会である。高齢者の多くが健康で、労働に耐えうる体力を備えているような社会だ。こうした社会においては、人々は年齢の如何を問わず、いくつまでも学習を続け、いつまでも新しい物事に挑戦し続ける。自分の中の惰性に打ち勝つことさえできれば、高齢者は豊かな人生の経験がある分、新しいアイディアをより有効に実践できる可能性がある。(新しいアイディア自体は、若者の方に多いかもしれない。だが若者は経験が乏しいゆえにそれを社会で実現する方法を知らないことが多い)

公的な社会保障は、人々の新しい物事に挑戦する自由を保障するという理念の下で設計されるべきである。こうしたセーフティネットの下で、人々は安心してさまざま生き方を試すことができる。そういう生き方についての自由が、副産物として社会に豊かさをもたらすのだ。