マスメディアの終わり

TechCrunch が既存の(アメリカ)新聞業界を痛烈に皮肉っている。

聞こえてくるあの泣き言は、新聞の死のあえぎ

Googleに対して文句を言うのは止めろ、と。自分のところにトラフィックを回してほしいという下心を持ちつつ、Google を記事泥棒呼ばわりするのはあまりに偽善的だと。そんなに Google が嫌いなら、robots.txtクローラー(ウェブコンテンツを自動収集するプログラム)をはじいてしまえと。

これはいつもの TechCrunch 節なんだが、 はてブコメントにこんな問いかけがあった。

しかし新聞が死んだあと、誰がWebでニュースを伝えるんだろう?

私なりの答えを述べよう。これからニュースを伝えるのは、ブロガーだ。官庁や大企業がプレスリリースを自分のウェブサイトで行い、それに基づいてブロガーが分析記事を書く。あるいは、さまざまな事件事故に立ち会ったブロガーが twitter で速報し、ブログで分析する。そういう時代が確実にやってくる。

一部の有名なブロガーは、会員制サイトや広告収入で、自分のサイトから生計を立てることができるだろう。だが、大部分のケースでは、さまざまな専門家が本業のかたわら「趣味」としてブログを書くにとどまるだろう。しかし、ブログはその専門家が自分の能力を証明するのに一番よい手段となる。そのため、多くの専門家は誠実に自分のブログを書き、それは高い価値を持つだろう。

マスメディアは、一つの情報を何千万人もの人たちに同時に届けるのに適している。だから、マスメディアはこれからも必要だ。そういう議論をする人たちがいる。しかし、考えてみてほしい。いったいどれくらいの情報が、数千万人の人たちに速やかに共有される必要があるのだ?どれくらいの頻度で?マスメディアが登場する前、そんな大量情報伝達手段は社会に存在しなかったが、必要な情報は緩やかに社会全体で共有され、社会はきちんと運営されていた。

人々が、共有しなければならないと思い込んでいる情報は、実は、マスメディアが経営的な都合で、でっち上げられて誇張されたニュースにすぎないのではないか?どうして、私たちは、興味も関心も利害関係もない、国内の殺人事件や地球の裏側のテロ事件を発生から10分以内に知る必要があるのか?必要なんてないのだ。そう思い込まされているだけだ。これはマスメディアによる洗脳にすぎない。

本当はわれわれが幸せになるために、必要な情報なんてたいして多くはない。その情報を知るためには、自分が興味のある分野の専門家のブログをいくつか購読すればほとんど足りる。そして必要に応じて、サーチエンジンでウェブを検索すればいい。たった一つの情報が、同時に数千万人によって共有される必要なんてどこにもないのだ。

少し話はずれるが、音楽業界も新聞業界と同じジレンマを抱えている。

ある人は「大量複製業者」の時代の終わりというエントリで、メジャーなレコード会社の音楽の商品化手法が限界に達していると指摘している。音楽の送り手と聞き手の間に立ちはだかる「大量複製業者」。インターネットの発達とともに、その大量複製能力が相対化されて、意味を失いつつあると。音楽は、すべてがライブであった過去の姿に戻りつつあるのではないかと。

繰り返すが、俺はあんまり勉強できない人なので「それ」に名前はつけられない。だけど、それはweb2.0がどうしたとかそんな新しいものではなく、なんだかとても昔からあるもの、たとえば人の笑顔や拍手、そんなものに類似したなにかではないかと思うのだ。コストや距離の問題から自由になったとき、そこに残ったのは、ごくあたりまえのものだったよね、というそんなつまらない話なんじゃないか。そう思うのだ。

新聞メディアでも同じことが起きつつあるのではないか。昔は、何かを知りたければ、近所の物知りのところに出かけて話を聞いたはずだ。お茶など飲みつつ談笑しながら。ブロガーと読者の間の対話的な知識の伝達は、こうした過去への先祖帰りにすぎないのかもしれない。