走る日本人

昨日、成田空港に到着し、荷物受け取り場のターンテーブルの前で荷物を待っていると、アジア人のオジさんがカートをターンテーブルへ向かって全力疾走して近づき、自分の荷物を引き上げていた。このオジさんは日本人に違いない。というのは、こういう場面で走るのは日本人だけだからだ。他の国の人たちが走るのは、よほど特別なときだけである。

今日は、神奈川県の自動車免許センターへ免許の更新に出かけた。午前の受付は、11時までだったのだが、私が到着したのは11時5分。入り口の受付嬢は、「更新は2階です!急いで!」と金切り声を上げた。2階に到着すると別の中年女性が、そわそわした様子で「更新受付はまもなく終わります!急いでください!」と声を張り上げている。私はいくつか窓口を回って、印紙を買ったりなんだりさせられたが、そのたびに「急いで!」と窓口の人間からせっつかれた。私が、とぼとぼと歩いていくと、視覚検査室の前に立つ女性からは、「走ってきて!あなたが午前最後なんですから!」と叱られた。実際、更新に来ていたほかの人たちはみな走っていた。

私はこう思った。午前の受付は11時までなんだから、11時で機械的に切ってしまえばいいではないか。午後1時に来いと冷酷に告げればよいだけのことだ。逆に受け入れることを決めたのなら、普通の速度で歩いて窓口を回るのが前提ではないか。走らなければならないような状態を作り出すべきではない。

突拍子もないようだが、「些細なことのために日本人は走る」という習慣と日本の労働慣行とは、深い関係があるのではないか、と今回日本に帰ってきて思った。

日本では多くのソフトウェアプロジェクトがデスマーチと化し、徹夜の勤務が続いたりするのだが、それは「本来は間に合わないのだが、走って何とかする」という精神主義なのではないか。太平洋戦争のとき、竹槍で敵の飛行機を落とすのだと気炎を上げたときと同じである。合理的に計算してリソースを割り当てるのではなく、「気合で何とかする」と考えかちなのが日本人である。

しかし、組織の末端の人間が「気合で」問題を解決してしまうと、組織の上層部が戦略的に問題を解決しようという部分が少なくなってしまう。戦略なしでもある程度組織が回ってしまうからだ。こうして日本的な組織の上層部は、「優秀な」末端労働者に甘やかされて、仕事を怠け無能になっていく。

このような戦略性の欠しい生産モデルを引きずったままでは、結局、日本の賃金水準は発展途上国と同じところまで下がっていくしかないのではないか。日本人の一人一人が「なぜここで走る(=無理して働く)必要があるのか。自分の尊厳を維持しながら働く方法があるのではないか」と自覚して初めて、真に豊かな社会が実現するのではないだろうか。