残業は恥だ

もし日本の会社から「長時間残業」が消えたら、日本人はそれだけでずっと幸せになれるのではないか。私としては、日本の会社から残業が消えたら、もういちど日本の会社で働いてもいい。

日本と違って長時間残業がほとんどない欧米企業の働き方を見てみよう。

上司は、各々の部下に仕事を割り当て、進捗を管理する。部下は、上司に割り当てられた範囲だけの仕事をやる。自分の仕事が終われば、定時に帰るし、終わらなければ残業することになる。隣の人が残業していても、それは他人の仕事だから、関係なく早く帰ることができる。

こうした環境で誰かがずっと残業をしていたら、それは、上司がその部下の能力を正しく見積もることができなかったことを意味する。その部下は「なぜ残業をしているのか」と上司から尋ねられることになるだろう。そして、上司はその部下が定時に帰ることができるように仕事量を再配置する。

日本はどうだろうか。日本の場合、上司は部下に対して細かく指示を出すことはしない。部署全体のミーティングで、大まかな目標を提示する。そして大まかな役割分担を各部下に提示するが、これは絶対的なものではない。部下同士が話し合って、適宜、互いに仕事量を調整することが期待されている。

逆にいうと、日本では、「ここからここまでが私の仕事」という線引きがあいまいなのだ。こういう状況では、誰か一人残業しているときに、早く帰るのは難しい。ひょっとすると残業している人の仕事の一部は、あなたの仕事に含まれるのかもしれない。ならば、その人を手伝って自分も残業するのが正しい判断ということになる。責任分担がはっきりしない状況では、各人の仕事量が無限に増殖する可能性があるのだ。

ではどうしたら日本で残業を減らすことができるのか。これは難しい質問である。私の頭では、はやはり欧米の企業のように、各人の役割分担を明確化して、「付き合い残業」を減らすということしか思いつかない。ただ、日本人は責任の所在をあいまいにすることに関しては天才的な民族である。(ネットの匿名文化を匿名記事で批判する新聞などが典型だ)実際にできるかどうかは確かに難しい部分があるが・・・。

仕事を仕事と割り切る姿勢も重要ではないか。仕事は、公のものであり、自分の一部ではない。日本人は、自分の仕事を自分の人格の一部のように感じすぎるために、公私のけじめがつかなくなってしまうところがある。仕事は確かに大切だが、しかし同時に「たかが仕事」でもある。自分の家族や友人より大切な仕事とはなんだろうか。自分が病気で倒れたときに助けてくれるのは、仕事なのか、それとも家族なのか。

残業を減らせというとき、普通、残業をしている本人の努力が強調されるが、本来それは上司の責任なのである。仕事の振り方を間違った上司が悪いのだ。「部下の残業は、上司の恥」というキャンペーンを日本政府が行うことはできないだろうか。霞ヶ関のキャリア官僚も長時間残業を自ら無くすのは当然の前提として、である。