日本的経営が社畜を生んだ理由

社畜とは、会社に強い忠誠心を持ち、私生活を犠牲にして、会社での労働を第一に置くような価値観をもつ従業員を揶揄する言葉だ。「社畜論」については、日本では定職を持たず、その後、オーストラリアで修士号を得て、いまはシンガポールで会社勤めをする海外ニートさんのブログが面白い。(アクセスすると音が出るので気をつけてね)

先日、私は、「異なる文化をもつ人たちと働くということ」、「残業は恥だ」という日本の労働環境を批判するエントリを続けて書いた。私はかつてカナダのローカル企業で2年半くらい働いたし、その後も、韓国・中国・ベトナムなどに住んで、現地の人たちの働きぶりを観察する機会を持った。

とにかく、日本の職場の雰囲気や考え方は、海外の職場とは著しく異なる。しかも、北米(カナダ・アメリカ)の職場と日本以外のアジア(韓国・中国・インド・ベトナム)の職場の雰囲気は当然異なるものの、それでも日本のそれに比べると、両者は近いのである。つまり、世界で日本だけが突出して、特異な労働環境を持っているのだ。

その違いを言語化してうまく説明してくれている本を見つけた。その名も

アジア発 異文化マネジメントガイド

アジア発 異文化マネジメントガイド

著者の河合隆司氏は、長年、中国やアセアン諸国で、日系企業などに「異文化マネジメント」を教えてきた専門家である。アンケート結果から構成した、「アジアのマネージャー」対「日本人ボス」の架空のクロストークが非常に面白い。社畜がいわゆる日本的経営から直接派生するものであることが伺えるからだ。以下、長くなるが引用する。

「未来の描き方について」というテーマで、アジアのマネージャーは次のように述べる。

「期待・目的を明示してほしい」


標数値だけでなく、達成する上でなすべきこと(requirements)、何をしてほしいのか(expectaction)、進もうとしている方向や目的(purpose)を言ってください。ハウツーや細かい手順はもういいのです。


日本人はゴールをもっていないと、諦めている人もいます。


私たちマネージャークラスであっても、何も言われないで自分でゴールを見つけることには慣れていないのです。


また社長は企業文化を浸透させて、ミッションの共有化をさせることに集中すべきですよ。

これに対して、日本人ボスは次のように答える。(クロストークなので、当然話がかみ合っていない)

「社長のつもりで考えなさい」


はっきりした指示を出す工夫はしたいと思う。しかし指示が来るまで待つのではなく、自分は何をすべきか考えるのがマネージャーの仕事だと思う。物事の全体像を俯瞰し、一段高い視点から判断できるようになってほしい。自分の狭い責任範囲にこだわり会社全体の視野を見過ごさないように。


部門全体の利益、動きに敏感になって、幹部と一緒に会社を引っ張る牽引役になってほしい。


経営者の立場に身をおいてすべての判断をしてほしい。

いやあ、すごいな。こういう日本人ボスっているよね。海外ニートさんなら、典型的社畜として切って捨てられるだろうな。あと、IT 受託開発のお客さんって、大抵こういうことを言っているような気がする。

・「経営者の立場に身をおいてすべての判断をしてほしい」
日本的経営の本質を突いている。従業員一人一人が経営者のつもりで会社に参加すること。質問するのではなく、察せ。技は教えてもらうのではなく盗め。なぜ社畜たちが自分たちの地位が低くても、周囲に経営者視線で、過酷な長時間労働を押し付けてくるか理解できる。

・「自分の狭い責任範囲にこだわり会社全体の視野を見過ごさないように」 
日本企業が「責任分担」を軽視するのはこれが起源だったのか。各人の責任範囲というのはあってなきが如し。いざ緊急事態になれば全員総出で対応するのは当然、というわけだ。本当の緊急事態ならまだしも、客のちょっとした気まぐれ程度の要求にも同じように対応するから、「付き合い残業」が減らないのだな。

日本人ボスは「24時間会社のことを考えろ。経営者の立場に身をおけば、自分のやるべきことは見えてくるだろう。だからあえて細かい指示を出す必要はない」と考えているのに対して、アジアのマネージャーたちは「自分は会社の中で一機能を果たすのに過ぎない。よりよく機能するためには、上司が明確なゴールを設定する必要がある」と言っているのだ。

ちなみに欧米企業でもマネージャーの考え方は、アジアのマネージャーたちとほぼ同じである。彼らにとっては、上司からの命令が全てであり、会社全体のことはあまり考えない。そして、自分の責任範囲だけを果たせば十分だと考えている。

一見、日本人ボスのいうことは、経営者にとっては理想的にも見える。ただ問題なのは、「経営者の立場に身をおく」というのが、単なる精神論に終わってしまう可能性が高いという点だ。そもそも、組織のヒエラルキーの下の人間には、組織全体を俯瞰できるような情報が与えられていない。その中で「経営者のように行動しろ」と言われれば、無限の長時間労働を以て応えるしかないのではないか。

また、地位の低い社員たちは、報酬が少ないのに、報酬の高い経営者と同等に働けということ自体に無理がある。終身雇用・年功序列制度では、若いころは仕事はきついが給料は安く、中高年になって仕事が楽になるにも関わらず給料が高いという形で従業員を報いる。もし終身雇用制度が崩れたら、若い人たちが重労働する動機がなくなってしまうのではないか。

やはり、この日本人ボスのような考え方は、終身雇用・年功序列制度の中でだけ、有効であったのではないか。残念ながら、外部の価値観の異なる人たち(専門家や外国人など)と協同作業をするのに、この考え方ではうまくいかないのではないか。

(おまけ)ソフトウェア工学的に日本的経営を見る

欧米的な経営(アジアもそれに準じる)では、各従業員の部門の責任および相互のインターフェイスは、明確に定義されている。各従業員や部門は、クラスのような形でモジュール化されていて、実装は隠蔽されている。そして、多数のモジュールが疎結合することによって、全体が機能している。

日本企業では、各従業員や部門の責任および相互のインターフェイスが明確に定義されておらず、モジュールのプライベート変数を互いに参照しあっている。つまりモジュールが密結合している。このことが、業務フローの見直しやアウトソーシングの妨げになっているのではないだろうか。

ソフトウェア工学では、疎結合は密結合より望ましいとされている。疎結合では、インターフェイス部分で一定のオーバーヘッドは生まれるが、その代わりモジュールを独立したパーツとして取り扱うことが可能なので、コードが単純化され、保守性が向上する。つまり、コードを書き換えることが容易であり、仕様の変化に対して強くなるのだ。

ここらへんの話をもっときちんと考えると面白いかもしれない。