シンガポール雑感

シンガポールを訪れるのは2度目。前回は18年前のことだから大昔である。そのときには気がつかなかったのだが、今回来て思ったのは、シンガポールの街並みは徹底的に英語圏の植民地風なんだなということ。まあ、もともとイギリスの植民地だったから当たり前かもしれないが、計画的に敷設された広々とした道路が縦横に走り、緑にあふれた環境に家やビルが点在する。今日、電車から車窓を眺めた印象は、「アメリカにそっくりだ」というものだった。あるいはオーストラリアでもいい。

この街を創始したのはイギリス人かもしれないが、ここまで成長させたのは、現地のシンガポール人たちである。シンガポール人は、中国人・マレー人・タミル人であり、みなアジア人である。そして、彼らの出身国の姿を見るとあきらかなように、決してアメリカやオーストラリアのような整然とした街並みをもつ民族ではない。シンガポールには、なんともいえない人工的な空気が漂っている。アジアでは間違いなく一番美しい都市(国)でありながら、どこか取ってつけたような印象をぬぐえない。オーストラリアの首都キャンベラやブラジルの首都ブラジリアのような人工的な計画都市が、いつまでたっても人間的な温もりを得ることがないように。

シンガポールの電車に乗って、乗客の中国人の黄色い顔や、タミル人の黒い顔を眺めながら思ったのは、この人たちは相当無理をしてるんだろうな、ということだ。本来持つ民族的な情感をストレートに表現することは許されず、いつも何か見えないルールに規制されている感じがする。この国の人たちは、経済的繁栄だけを共通の目的にして集まっているだけなのだ。それを超える深い建国思想は何もないように思える。

同じ経済的繁栄を求めるにしても、香港の場合は、全身から強烈に華人文化のにおいを放っていて、自然体の街である。ところがシンガポールはどこかとらえどころがない。実質、中国人の国であるけれども、それを公式に唱えることは許されない。街の道路標識や地下鉄のアナウンスは完全に英語化されていて、中国的な要素は完全に消去されている。私はそこにどうしても無理を感じざるをえない。

きっとこうした無理さゆえに、シンガポールの与党・人民行動党は、あらゆる手段を使って独裁を維持しようとするのだろう。彼らは、自分たちの国民を信じることができないのだ。国民から「こんな人工的な国は要らない」と宣告されることを恐れているのだろう。

シンガポールはいまや日本より豊かな国になった。日本が学ぶべき点は数多くある。しかし、それでも私はこの作り物臭さがどうにも鼻についてしまって、この美しい島国の風景を素直に堪能することができないのだ。