日本に「明治維新」は再びやってこない

今年の NHK大河ドラマは、坂本龍馬が主人公らしい。そのせいか「私は坂本龍馬になりたい」とか言う政治家が出てきたり、龍馬の話題で日本はなかなかにぎやかなようである。私は、歴史小説家の司馬遼太郎のファンで、彼の作品「竜馬がゆく」は昔からの愛読書であった。

幕末の志士たちの、自己の利害を超えた清々しい生きざまは、多くの日本人たちを魅了してきた。いまの日本の経済的・社会的危機を幕末になぞらえ、ふたたび「明治維新」の出現を期待する向きもある。

だが、残念ながら、このままでは日本に「明治維新」はやってこないだろう

なぜか。

明治維新というは、一見狂った運動である。なぜかといえば、支配階級である武士たちが、自らその存立基盤である封建社会を破壊してしまったからである。(実際、そのことに不満をもった旧武士階層が、西南戦争を起こすに至るのだが)

そこには「天皇こそが日本の正当な統治者である」と主張する尊王論の存在がある。水戸学とも呼ばれる、幕末の知識人たちを動かした巨大なイデオロギーである。

幕末の下級武士たちは、天皇のほうが、世俗の最高権力者である将軍より偉いのだ、と心から信じていたから、彼らは自分たちの寄って立つ社会基盤を自ら破壊することができたのだ。*1

天皇の方が、将軍より本当に偉いのかどうか。それは科学的論証の対象というより、信念の問題で、やや宗教に似ている。だが、信念は、無から現実を作り出す力を持っている。それは、数千万の人たちを現実に動かし、社会を塗り替えていく。

もし尊王論がなければ、幕末の日本人たちは、置かれた社会的立場を乗り越えて一致団結することができず、中国や朝鮮のように、なすすべもなく外国の植民地にされていたかもしれない。そういう意味ではこのイデオロギーは日本を救ったのである。

ところが歴史は皮肉なものだ。尊王論は、皇国史観という形で、戦前の学校教科書の中で具現化した。そのイデオロギーをたっぷり吸って成長した子供たちは、やがて、アジアへの無謀な侵略戦争を開始した。現実には、さまざまな政治力学が働いたにしろ、建前としては、戦前の日本社会で皇国史観に真っ向から反対することは許されなかった。天皇の名において、戦争は遂行された。それは、イデオロギーが常にそうであるように、現実に基づく計算において行われたものではなかった。戦争という巨大プロジェクトの資源配分に関して、空想的なほど甘い見積もりは、悲惨な現実によって報われた。日本は敗戦したのである。同じイデオロギーが今度は日本を滅ぼしたのだ。

戦後の日本は皇国史観を正式に放棄した。日本を占領したアメリカの意向に沿って、代わりに民主主義と平和主義を新しいイデオロギーとして据えたはずだった。しかし、これは所詮は「舶来物」であり、日本人の心の深い部分まで根を下ろしたとは言いがたい。

むしろ、日本人の新しい心の寄りどころになったイデオロギーは、年功序列・終身雇用の「会社主義」であったと思われる。そうでも考えないと、いまだに日本の学生たちが大企業に殺到している姿が説明できない。もちろん、大企業での仕事は他の仕事より金銭的な報酬は高いのかもしれない。しかし、それだけだろうか。日本人の多くが「いい大学を出て、いい会社に入って、昇給・昇進して、定年まで勤め上げ、幸せな一生を過ごす」という以外の成功の物語が思いつかないのではないか。

革命には、必ず説得力に満ちた新しい思想が必要である。外部の力によって旧権力が倒されるとき、そこには必ず内部の呼応者がいるのである。幕臣でありながら、倒幕勢力に深い理解を示していた勝海舟のような人物である。

今の日本には、既得権益層さえ、自ら権力を手放さなければならないと確信させられるような、新しい思想がまだ現れていない。もし、目先の物質的な欲望だけが問題であるというなら、既得権益層と窮乏する者たちは、永遠に争いを続け、決して新しい秩序を生み出さないだろう。

イデオロギーという物語は、時に人間を生かしもし、殺しもする。しかし、人間は悲しい生き物で、思想的真空に耐えられない。ならば、せめて古い物語を捨て、新しい現実に即した新しい物語を手に入れることはできないか。古い「会社主義」という物語を乗り越える、新しい物語の創造がいま求められているのではないだろうか。

*1:もちろん、幕末の指導者たちは革命のプロセスが進むにつれて、もっと現実的になっていったわけだが。少なくとも末端の志士たちは、もっと素朴に尊王論を信じていただろうし、そうでなければ、あれだけの力を動員できなかっただろう