情報のヌーディスト・ビーチへようこそ

オーストラリアに旅行に行ったときの話だ。私は、海岸のきれいな砂浜を歩いていた。ふと海の方に目をやると白人の中年の男女が一糸まとわぬ姿で歩いている。驚いて見渡すと、そこかしこに全裸で遊んでいる人たちがいるではないか。どうやら、私はヌーディスト・ビーチに入り込んでしまったらしい。

ヌーディストのコミュニティでは、衣服を着けず全裸が基本である。服を着ると逆に恥ずかしいらしい。裸のままでどうして彼らは恥ずかしくないのかといえば、みんな裸だからだ。性欲は、何をトリガーにして発生するのはわからないが、おそらく着衣の有無には関係ないのだろう。熱帯の原住民でいまもほぼ全裸で暮らしている人たちがいるから、彼らの生活を観察すれば何かわかるのかもしれない。

私たちは、みなプライバシーという名前の小さな秘密を持っている。ちょうど文明人たちが服で自分の身体を隠すように、私たちはこの情報を他者に対して隠すことを当然だと考えている。

インターネットのない時代、情報は互いに孤立し、1つの情報を多くの人たちに伝えるのには大きな労力が必要だった。その伝送路を独占したマスコミは大きな力を握っていた。

ところがインターネットの時代になって事情はにわかに変化した。もともとデジタル情報は複製コストが極端に小さい。ウェブの創成期には HTML の知識が必須だったが、ブログが現れ、さらに Twitter が登場することで、不特定多数への情報発信のコストが飛躍的に下がっていった。

かつて秘密は複製や情報発信コストの高さという技術的な理由で自然に守られていた。非公開が原則だったのである。ところがいまや技術的構造は逆転し、公開され複製されることがもっとも自然になった。

私たちは、ウェブが普及し始めた1990年代後半から、突然「情報のヌーディスト・ビーチ」に迷い込んでしまったのではないか。そこでは、裸でいること、つまりすべての情報を公開することが基本の世界である。

情報を、自分のプライバシーの領域まで含めて公開することは、いままで秘密をかたくなに守り続けてきた人類の歴史を考えると、一朝一夕に実現することではないかもしれない。私も、Twitter でみな「いま何をしているか」ということを不特定多数に向けて発信しているのを見て、最初は抵抗感をもった。生活が丸見えではないか。悪意のストーカーが現れたらどうするのか。

しかし、考えてみてほしい。悪い人たちは目立つが、数の上では圧倒的少数派である。自分の情報を率直に公開すると、それを受ける人たちはほとんどが善意の人たちだ。善意の人たちに自分を理解してもらえば、いろんな助言も受けられる。それに、一部の人間だけが自分の情報を公開するのなら目立つのだが、全員が公開するなら誰も目立たない。ヌーディスト・ビーチで裸の人たちが目立たないように。悪意の人が犠牲者を選ぶにしても、もう情報の公開・非公開は大きな誘因ではなくなる。それでも犠牲者に選ばれてしまったら運が悪いとしか言いようがない。

ネット時代が本格化するにつれ、人類はプライバシーという概念を修正せざるを得なくなるだろう。それはもっと限定的なものになり、かつてプライバシーと呼ばれていた多くの情報は公開されるだろう。これは自分の行動を他者に対して明らかにするという説明責任につながってくる。なぜなら、情報そのものを売るのが難しいこれからの時代には、人々は行動の目的と自分の生活ぶりを広く明らかにして、賛同者から直接的な支援を得ることが重要になるからだ。

私たちは、いま情報のヌーディスト・ビーチにたどり着いた。秘密という窮屈な服を脱ぎ捨てよう。私はまだ恥ずかしいし、多くの人たちが移行期にいる。でも、完全公開という裸の状態に慣れてしまえば、私たちはお互いをもっと自然に感じ合えるようになるかもしれない。ラブ・アンド・ピース。