英語は誰の所有物か?

英語に対する日本人の態度は人によって温度差が大きい。崇拝する者・積極的に取り入れようとする人たちがいる反面、反発・毛嫌い・恐怖心を感じている人たちも多い。私たち日本人にとって、英語とは何なのだろうか。この点について、いぜん私は英語で考えたことがある。今日は、その文章を日本語に訳して皆さんに紹介したい。

Going on Rails: Who owns the English language?

英語は誰の所有物か?


英語の起源が英国にあることは明白である。それは欧州の地味な一言語として出発した。大英帝国が繁栄するにつれ、英語は世界中に広がっていった。それ以来、旧英国領を中心に公用語の一つとして話されている。英国がその力を失った後、米国が世界に対する覇権を引き継いだ。米国には衰退の兆候が見られるとしても、依然として技術や国際規制の点において米国は世界で最も影響力の強い国家である。


歴史的に言えば、かつて英国の人々は独自の文化を持つ白人たちであった。しかし、その特徴は、世界中からの大規模な移民の導入により、不明瞭になった。米国は、英植民地としてその歴史を開始した。独立した後も、米国は白人が優勢な国家でありつづけた。しかし現在、白人はますます少数派になりつつある。その人口の多くは白人以外の人々 - ヒスパニック系・アジア系・アフリカ系の人々に置き換わった。


従って、私たちは一つの事実について意識しなければならない。たとえ英国と米国がいまだに英語圏で指導的な国家だとしても、その構成員たちはすでに伝統的な「白人」ではないのである。英語はグローバルな言語になりつつあり、それは異なった背景を持つ異なった人々によっていまや話されるようになっている。


通常、一つの言語はある文化的な文脈において話される。英語もまた例外ではない。英語は依然として英国と米国の文化に強く関連づけられている。私は英国と米国の文化のいくつかの側面について、受け入れがたいものがある。もし英語が真にグローバルな言語であろうとするなら、おそらく、それはより文化的に中立なものであるべきだ。あるいは、それは英語が話される各地域の状況に合わせて、調整されるべきだ。たとえば、それが日本で話されるとき、英語は日本人のニーズに応じてカスタマイズされるべきだ。英語の使用者の要求に応じて、新しい語彙と表現が英語に追加されるべきだ。


私たちにとって英語は「彼らのもの」ではなく「私たちのもの」という認識を持つことは重要だ。私は英語のネイティブスピーカーではないが、依然として世界の人々にむけて自分の考えを伝えるため、英語を使う権利が与えられている。多くの異なった人々とのコミュニケーションを可能にするため、私は標準英語を使うべきだろう。だが、その標準英語そのものが、世界のすべての人々のニーズに応じて定めれるべきなのだ。単に英語圏の人々のニーズによってではなく。

日本のこれからの英語教育を考える上で、私は英語をどこか自分たちとは異質な外国人たちが使う言語としてではなく、われわれ日本人自身が世界に向けて自己表現するための「われわれの言語」という意識をもつことが非常に重要だと考えている。これからの時代、日本人にとって英語との付き合いはなくすことができない。ならば、伝統的な母語である日本語に並んで、新しい日本人の母語としての英語を受け入れていく姿勢が必要ではないだろうか。

追記

ちょっと補足。

English as a Global Languageというおすすめの本がある(日本語訳はないが、きわめて簡潔な英語で書かれており、英語の勉強にも最適)。10年ほどまえに読んだのだが、私はこの本に強い影響を受けた。

著者 David Crystal は2種類の英語を峻別する。一つは英語のネイティブスピーカーの生活語としての英語。もう一つは、それより明瞭簡潔な、世界のすべての人々の間のコミュニケーションを支援する世界共通語(lingua franca)としての英語。後者の英語はもはや、イギリス人やアメリカ人といった伝統的に英語を使う人々の手を離れて進化をはじめている、という。私がこのエントリで主張した「われわれの言語としての英語」は、もちろん人類全体の財産である世界共通語としての英語である。