そろそろ2ちゃんねる的言説は卒業しよう

2ちゃんねるの力が落ちているらしい。

天皇制と2ちゃんねる - 池田信夫 blog

2ちゃんねるは、ときどき非常に興味深いスレッドがあって、昔はちょくちょく覗いていたものだが、最近はぜんぜん行かなくなってしまった(2ちゃんねるまとめサイトはいまでも面白いものもあるけどね)。

2ちゃんねるの言説には独特の雰囲気がある。一種の殺伐とした感じというか。頭ごなしに喧嘩を吹っかけたり、罵詈雑言を述べ立てたり。日本語は、挨拶に関してまわりくどいところがあるので、それを省いている部分もあるのかもしれない。それでも、あまりに失礼としか言いようのない喋り方が多い。

私は最近は外国生活が多いけれども、それでも合計 30 年以上は日本に住んでいる。日本にいるとき、2ちゃんねるのような喋り方をするリアルな人々に会ったことがない。私の知らない山奥に、こういう「2ちゃんねる族」が住んでいるのか?いや、そんなことはないだろう。

火を吐くような辛辣な言葉を並べ立てている2ちゃんねらーたちは、おそらくはごく普通の人たちなのだ。まじめでおとなしい普通の学生・社会人たち。あなたの周りにいる人たち - 上司・部下・同僚・夫・妻 - も、実は、こうした2ちゃんねらーかもしれない。

自分の意見を持つのはいいことだ。しかし、それと他者を攻撃することは完全に異なる。こうした人たちは何が礼儀に欠ける行為か承知した上で、わざとネット上で他者を攻撃しているのだ。2ちゃんねるという巨大掲示板の存在によって、そういう喋り方が「クール」だと考えられた時期があったのは、日本のネット文化醸成の上で、とても不幸なことだった。

英語にアサーティブネス(assertiveness)という言葉がある。自己主張性としか訳しようがなく、それだけで、日本語ではすでにネガティブなニュアンスがあるのだが、英語では決してそうではない。これは「相手の視点を考慮したうえで、自分の意見をいかに効果的に相手に伝達し理解してもらい、自分の当初の目的を達成するか」という心構えと技術のことである。

これはマーケティングや営業の基本でもあるだろう。あるいは異性に働きかけるときの基本でもあるかもしれない。要するに、よいコミュニケーションそのものである。

日本人は残念ながら、このアサーティブネスを学ぶ機会が大人になるまであまりないのではないだろうか。日本では、自分の意見をはっきり主張して、その結果達した合意に従う、という文化があまりない。意見の一致を求められる状況では、通常、相手の顔色を探りながら、なんとなく落としどころを探す。そうやって空気が決定した事項に対して、声高に「なぜか」と問いかけるのは一種のタブーになっている(授業中、学生は先生に質問しない。社会人になって、会議をやっても、みんな活発に発言しないしね)。

日本人はそうやって普段、自己主張をせず、おとなしく空気の決定事項にしたがっているのだが、それはやはり一種のストレスの源である。そして、そのタガが外れると突然攻撃的になってしまうのだ。感情が外にほとばしり出て、コントロールが効かなくなってしまう。いわゆる「切れた」状態になってしまうのだ。

日本人はアサーティブネスと攻撃性(aggressiveness)の区別が付かないのだろう。そのため、日本人が口を開いて、正直に語り始めると、すぐ2ちゃんねるのような言説になってしまう(私のブログのコメントにもそういう発言がけっこう多い)。

日本人は自分の意見を効果的に相手に伝え、自分の意図することを相手に理解してもらう練習をもっとすべきだ。せっかく、自分の意見を持っているのだから、相手がそれを理解し、自分の利益になる形で相手が行動を変えてくれたほうがいいではないか。

そのためにはまずは相手の立場に立って考えることが必要だ。回りくどい挨拶は必要ないが、最低限の礼儀は守ること。たとえ怒っていたとしても、その怒りが本当に議論の主題から来たものか、それとも、自分の生活の鬱憤から来たものか、口を開く前に冷静に考えてみること。モニターの前で悪態をつくのはいい。しかし、その場の議論に貢献できないのなら、発言を控えたほうがいい。まっとうな反対意見と単なる鬱憤晴らしは簡単に区別が付くものだ。

池田氏が言うとおり、Twitter ではすべての発言が、匿名掲示板ではなく自分自身に帰属するので、無軌道な発言に対する一定の歯止めにはなる。そのため、アサーティブネスを促進するツールになりうるだろう。日本人たちよ、もっと大人になろう。そして、もっと自由で創造的な言説を日本語圏のインターネット上に満ち溢れさせようではないか。