東大コンプレックス

コンプレックスとは、もともと精神医学用語で、「怒りや悲しみなどの強い感情や体験、思考が、無意識的に結びついている状態」である。しかし、日本では、単にコンプレックスといえば、劣等感のことを意味することが多い。

東京大学という存在は、それが知的な権威を象徴しているために、日本社会の時空に奇妙な歪みをもたらし、関わる者すべてに、元の意味でのコンプレックスを抱かせる。東大に行きたくて行けなかった人が、東大卒に劣等感(これもコンプレックスの一種)を抱くことがある。だが、実は東大卒自身も例外なく東大コンプレックスを持っているのだ。

東大卒は、偏在している。霞ヶ関のようなところには、掃いて捨てるほどいる。ところが、いないところには全くいない。私のように、東大卒としては非典型的な人生を歩むと、東大卒濃度の低い場所をずっと通過して行くことになる。私としては普通にしているつもりでも、東大卒であることが知れると、あれこれ言われることを避けられない。

大学に最初から行く気がなかった人たちは、単に物珍しい動物を見たような、乾いた好奇心を示すだけである。「今日は面白いものを見た。あれがうわさの東大卒か」という感じである。これはどうということはない。しかし、大卒の一部の人たちからは、粘っこい嫉妬に似た感情を感じるときがある。これにはやや参る。

東大卒の人の大半は、似たような不愉快な経験をしているだろう。彼らはまず自分から東大卒と明かすことはしない。東大卒の人間は、常に自分が東大卒であることを意識せざるを得なくなるのだ。これが東大卒が抱く東大コンプレックスである。

東大卒の人に劣等感を抱いてしまう人がときどきいるが、本当に残念なことだと私は思っている。東大の入学試験は確かに難しいし、入学できる人たちは、試験勉強の達人であることは間違いない。しかし、私は、自分の経験から、試験で測れるのは人間の能力のごく一部であることを知った市場経済は、実に多様な才能の結合を要求している。学校では劣等生だったのに、社会に出てから成功して金持ちになったりする人たちがいるのは、不思議でもなんでもない。

だが、現実には、東大卒が「よい会社」に就職しやすく、社会的地位も収入も高い傾向があるとすれば、それをうらやむ人が出ても仕方ないことなのかもしれない。学歴(学校暦)というものは、その人の潜在能力を推測するためのシグナルとして機能している。一度、社会で既成観念が成立すると、大学の序列がなかなか崩れないのは、日本に限った現象ではないのかもしれない。

実のところ、東大に知名度があるのは、東アジアの一部(韓国・台湾・中国)においてのみだ。私がかつて住んでいたカナダでは、誰一人として東大の存在を知らなかった。「University of Tokyo だから・・・東京にある大学だよね?」くらいの反応だ。これは、私にとってなかなかすがすがしい経験だった。カナダで私を評価してくれた人たちは、私を「東大卒」という色眼鏡で見てはいなかったはずだ。海外に出て、東大コンプレックスから解放された東大卒は多いのではないだろうか。

私が、米国の有名大学に行け、と若い人たちにことあるごとに言うのは、米国の有名大学は世界中で有名だからだ。カナダでも米国の有名大学はもちろん知られていたし、このベトナムでもそうだろう。どうせ有名大学に行くなら、世界で一番有名な大学に行ったほうがいい。

米国の有名大学の出身者は、コンプレックスを抱くのだろうか?ハーバード大学出身であることを表明するのにためらいを感じたりするのだろうか?この点は私にはよくわからない。だが、米国は、日本よりは人を測るモノサシがずっと多い国なので、日本のような湿った雰囲気にはならないような気がする。

おとなりの韓国は、日本と良く似た大学の序列があるので、ここでも有名大学の出身者はコンプレックスを抱かざるを得ないのかもしれない。「ソウル大学出身です」とか言いづらいのかもしれない。中国はどうだろうか?

私は、いろいろ考え抜いた果てに、東大卒であることを隠すことはやめにした。私が多感な時期に数年を過ごした大切な思い出の場所であるから。本当は、皆がお互いの才能・能力を認め合い、低く見ることも羨望することもなく、対等の立場で付き合っていけたら一番いいと思うのだか、日本ではなかなか難しいのかな・・・。

追記:
そもそも学歴って何のためにあるのかな?と考えてみた。
学歴が消える日 - Rails で行こう!