子供=負債の時代

ちょっと世間の空気を読まずにタブー的なこと言ってしまおうかな・・・。

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それでも子育ては社会で取り組むべき - 狐の王国

私自身は子育てをした経験はないのだが、身近な人たちの子育てを見て、つくづく大変だな〜と思う。小さな子供は、24時間、親(大人)による世話を必要とする。笑顔は確かに天使のように美しいけれども、泣き叫ぶさまはまさに鬼のようで、親でさえも耳をふさぎたくなるだろう。子供が3歳とか5歳とかある程度の年齢に達するまで、家庭はまさに戦場と化す。

現代の日本では、地域コミュニティはほぼ崩壊状態なので、子供たちは、ほぼ100%、両親かまたは祖父母によってのみ育てられる。両親+祖父母の4人で面倒を見ることができる場合は、まだ幸運で、都市部のサラリーマン家庭の場合、父親は連日の残業で平日はほとんど家におらず、母親だけが全面的に育児を負担することも多い。専業主婦がたった一人で一日中、わがままな赤ん坊と顔をつき合わせるのは、相当のストレスになることもあるだろう。

それでも、夫の稼ぎがよくて、妻が働かなくても済む場合は幸いである。夫の稼ぎが悪かったり、そもそも母子家庭の場合は、母親も外に働きに出なければならない。仕事と家庭の育児の両立は、難しい。母子家庭の場合は、母親は他に頼れる大人がいないので、精神的に孤独で、子育てはさらに難しいにちがいない。ちきりんのいうとおり、手に職もない未熟な 20代前半の女性が二人の小さい子供を一人で育て上げるのは、基本的に不可能だと思うべきじゃないか。

ベトナムの田舎で私が見た子育ての風景は日本とはずいぶん違っていた。友人の田舎の実家を訪ねたのだが、5人(くらいと記憶する)の兄弟たちはみな実家の近くに住んで、農業を営んでいた。兄弟たちは、20代・30代なので、小学生くらいの年頃の子供たちが合計10人以上いて、一緒になって、美しい田園風景の中、トンボや魚を採ったりして遊んでいた。そして、毎日、子供たちは思い思いに叔父叔母たちの家を巡って飯を食わせてもらっていた。まさに、兄弟たち全員で、その子供(めい・おい)たちを育てているという感じだった。

ベトナムは近代化を遂げつつあるので、さすがにこの子供たちはフルタイムで農作業を手伝ったりはしない。昼間は学校へ行って勉強する。しかし、昔は、子供たちは10歳にもなれば、大人を助けて、家庭や農場でいろんな仕事を手伝っただろう。親にとっては、ありがたい補助労働力であったはずだ。

日本語では「子宝に恵まれる」という。昔は、子供を作ることに、幾重にも社会的な意義があった。もちろん、子供の笑顔を見ることは、純粋な喜びであっただろう。しかし同時に、親には大人としての打算もあったはずだ。男子を授かることによって、家の存続を図ること。農家や商家において、一定以上の年齢の子供に家業を手伝わせること。老後の世話を子供に焼いてもらうこと。明治以前の過去において、子供は文字通り、子宝=資産でもあったのである。

ひるがえって現代の日本はどうであろうか。家の観念は薄くなり、「跡取り」にこだわることは少なくなった。児童労働は厳しく禁じられている。子供に代わって、公的な社会保障が老後の面倒を見てくれるようになった。つまり子供の「経済的価値」は激減したのである。その一方で、養育費・教育費は増加の一途。子供には一人一部屋を与えるべきと考える親も多い。大きな家を買えば、それだけ住宅ローン負担が増える。子育てに専念する専業主婦も、外で働いていれば得られていたはずの所得という多大な「機会費用」を支払っている。

というわけで、はっきり言って、現代において子供を持つことは、経済的には何のメリットももたらさないのである。将来の支払いを増やすだけである。つまり負債にすぎないのだ。子供を持つのは、純粋に精神的な満足を求めるための行為となっている。しかし、その負担額たるや、数千万円になるという試算もある。

こういう言い方をするといろいろ批判を浴びそうである。「神聖なる子育てをカネで割り切るとはなにごとか!」等々。もちろん、子育てを通じて、他にはない素晴らしい体験を得、人間的に成長することはできるだろう。その価値は、金銭的効用だけでは測れない。だが、悲しいかな、子供を何人生むかという親の意思決定に対して、その重い経済的負担がボディブローのように影響を及ぼし続けることは誰も否定できないだろう。多大な費用が掛かることには、節約する強い力が働く。それが我々の住む資本主義社会の基本法則である。

先進国が等しく直面する少子化現象は、精神的問題であるのと同程度に、経済的問題でもあるのだ。昔のような地域コミュニティが再建され、子供たちがコミュニティ全体によって育てられるようになれば、親の負担が減って、育児と仕事が両立しやすくなり、経済的な問題も緩和するだろう。

だが、子供を安心して任せられるようなコミュニティの再建は、現代の経済構造の下では容易ではない。結局、行政が子育てをする親たちを様々な角度から強力に支援するしかないのかもしれない。子供を持たない人たちは、納税を通じて、子供を持つ人たちを経済的な形で支援することになるだろう。(子供が社会の宝だとするなら、子供を持たない人々は一種のフリーライダー(ただのり)であるから、当然、子供を持つ人々を助けるべきだ)

もちろんそれは、子供が少ないこと(≒高齢化)が本当に問題だ、という前提での話だ。少子化も高齢化も、特に問題ではないという立場もありうる。その場合は、現状のままでもかまわないかもしれない。経済的合理性を持つ親たちほど、生む子供の数を減らすことになるだろうけれども。

まずは、子供が少なくて老人ばかりの社会は、そもそも望ましいのか・望ましくないのか、正常なのか・異常なのか、という原点から議論しないと答えが出ない問題ではないだろうか。私自身、まだ最終的な答えはでていない。