憂鬱から脱出する方法

最近時間を無駄に過ごしているという強迫観念に襲われている。実際のところいろいろ建設的な活動もやっているはずなのだが。「何が一番重要か」という価値観が定まらないからだろう。何をしていてもこれでいいのかという不安が募る。

いまの自分はまさに近藤さんの「憂鬱」と同じものを感じているのかもしれない。

憂鬱な気持ちとクリエイティビティ - jkondoの日記

人間のユニークさは、本能が壊れている点にある。他の動物は、環境に対して受動的に反応するにすぎないが、人間は環境に能動的に働きかけ、むしろ創造しようとする。本能によって刺激に自動的に反応することが許されないがために、環境の動作モデル=世界観が必要になる。

世界観を持たざるを得ないのは人間だけだ。「世界はこう動いている」という仮説を作り上げ、それに適合するように自分の知覚を捻じ曲げながら、人間は生きていく。実際には、現実は無限に複雑であり、どんな精緻な仮説も完全に適合することはないのだが。

人間は、世界観を通じてしか、生の現実に相対することはできない。真の現実の複雑さを処理するだけの知的能力がないからだ。世界観を通じて、世界を大体理解しているし、コントロールしているはずだと何とか信じこむことによってのみ、心の平安が得られるにすぎない。

世界観には副作用もある。その本質は世界の諸現象を単純化して理解する点にあるのだが、それが行きすぎると全てを理解しているという幻想にとらわれる。そして、世界観の中で打つべき手が行き詰まると、世界の終末が訪れたような、耐え難い憂鬱が訪れる。

しかし、そこで行き詰まっているのは、世界そのものではなく、世界観なのだ。世界の動作モデルが限界を迎えているのだ。人は不安なとき、慣れ親しんだ既存の世界観にしがみつこうとする。それをふっと手放すことができれば、そこには全く新しい世界が広がっていることに気づくだろう。

憂鬱とは、本質的に世界に対する「わかったつもり」に起因するのだから、既存の世界観がいかに不完全なものであるか理解するには、行動してみるしかない。身体性がここでは重要である。身体を動かして見ること。新しい場所に行き、新しい人たちに会うこと。視覚でも味覚でもいいから、さまざまな刺激に触れ、それが既存の世界観の枠にあっさり収まりきらないものであることを認めること。

憂鬱が、既存の価値観の限界がもたらす模索の過程だとするなら、それ苦しみぬき、新しい世界観に到達したとき、大いなる創造性の花が開くことは、想像に難くない。近藤さんの言うとおり「憂鬱な気持ちはクリエイティビティの源」なのかもしれない。
(ここからはじまる一連のツィートを再構成)