失われた身体性を求めて

今日は個人的なことを書こう。

もう5年くらい、私は出口の見えない暗い部屋の中でもがいていた。私の職業生活は行き詰まっていた。 IT の仕事をするかぎり、食うに困らない程度のカネは稼げた。だが、私は仕事に意味を見いだせないでいた。仕事が終わるたびに深い虚無感に襲われた。きっと他の道があるにちがいない。そう考えて、USCPA (米国公認会計士)の資格も取った。「ソフトウェア技術者はもう辞める!」と宣言したりもした。

会計の仕事も探してみたが、IT の仕事探しのようには行かなかった。IT は、この30年間、拡大を続けていて、新しい技術が新しい雇用をもたらしつづけた。ある程度の資質を持った人間が、本気で勉強すればいつでも参入できる開かれた業界だ。それに比較すると会計業界の方が参入の敷居は高いようだった。会計の世界は、IT の世界よりずっと秩序の確立した堅実な業界に見えた。

私は完全に方向性を見失っていた。IT はもう嫌だ。だが会計業界に新規参入すれば、長い下積み時代が待っている。どちらに転んでも、展望は明るくなさそうに見えた。

私が IT に興味を失ってしまった一つの理由は、私にとって IT が既に完成したように感じていたからだ。高性能 PC がわずか数万円で手に入る時代。Windows にしろ Mac にしろ、OS はほぼ完全に安定していて何の不満もなかった。この世界で IT 技術者として私にすべきことはもうないのではないか。私はそんな感慨にとらわれていた。

だが、そんな私を変える出来事が起こった。

今年のはじめ 、私の70歳近い母親が iPad を買った。母が iPad で一番気に入ったのは、iPad 上で文字を自由に拡大できる点だった。青空文庫Google News などを眼鏡を掛けずに読めると大変喜んでいた。母は iPad の熱心な擁護者になり、ついに母の70代後半の友人にさえ iPad を買わせてしまった。その母の友人は「こういう最先端の機械は縁がないものと思い込んでいが、これは私にも使えるかもしれない」と嬉しそうに語った。いまは iPad 2上で Youtube で好きな谷村新司の古い歌を楽しみ、コミュニティラジオアプリで、湘南ビーチ FM を聞いている。

iPad はパソコンを自由自在に使える人間にとっては特に新鮮味のないものだ。ところがその比較的大きな画面と直感的なユーザーインターフェイスのおかげで、いままで PC を敬遠していたような人々(主に老人と子ども)がさまざまなインターネット上の資源に自由にアクセスできるようになった。これは、無から有が生まれるような革命的なことだ。

なぜ iPad は使いやすいのだろうか。それは物理的メタファーを多用しているからだ。スクリーンには指でタッチできる。そこに表示されている何らかのものをなぞるように指を動かすと、それにつれて表示物が動く。たったそれだけのことでユーザーはそこに「自然」を感じ、快感と安堵を覚える。マウスカーソルを使っても同じことができたけれども、マウスと画面の間には距離がある。私の3歳のめいが iPad と PC をおのおの操作する姿を比べても、あきらかにマウス操作のほうが難しいのである。

だがそのマウスも、テキストだけの画面が操作しづらいという反省に立って導入されたものだった。黒い DOS 画面を覚えている人たちも多いだろう。そこではあらかじめ記憶したコマンドを打ち込んで行くしかなかった。当時は、コンピュータは基本的に長い訓練のあと初めて使用可能になる、プロ用の機械だった。

子どもたちは、あっと言う間に iPad の使い方を覚える。その同じ子どもが7歳になると小学校に行き、いやいや机の前に45分間座って、教科書中の文字や数字を読む練習をさせられる。なぜ子どもは iPad の使い方を会得するように、自然に文字や数字を覚えられないのだろうか?

それは、文字や数字が抽象的なものであり、人類が進化の歴史で、ごく最近に発明され使用されるようになったものだからだ。私の祖先は、ほとんどの期間、文字や数字を持たない時代を生きてきた。私たちの祖先は、狩猟や採取をして暮らしてきた。その比較的単純な作業には文字も数字も必要なかったのである。

人類は、もう何百万年も、物理的対象を操作して生きる存在でありつづけたし、いまもそうである。文字や数字のシンボルは直感的ではなく、人々にストレスを与え続ける。発明されて歴史が浅い文字や数字に、私たちが完全に馴染んでいないためだろう。

コンピュータが、それ自体、数字の塊のようなものであるにも関わらず、人間との接触面が、少しずつ人間にとってわかりやすい物理的メタファーへ近づきつつある。たかがユーザーインターフェイスとあなどってはいけない。それは何か、人類の歴史にとって画期的で革命的な出来事なのである。コンピュータの計算資源が、より人間に負担を与えないユーザーインターフェイス(最近はユーザーエクスピリエンス(UX)とも呼ぶ)を与えるために使われるのは、きわめてまっとうなことなのだ。

これはソフトウェア技術者として私の人生を賭するに値することかもしれない。私はふたたび IT に希望を見いだし始めた。

このことは私に非常に個人的な別に気づきをもたらした。私の人生が袋小路に入ってしまったのは、私自身が自分の身体性(物理性)を否定して、文字と数字だけの抽象性ですべての物事を割り切ろうとしたからではなかったか。物事を抽象化し、シンボルを操作することによって、その背後の物理的対象を操作しうるような幻想のなかで生きて来たのかもしれない。

物理的対象という泥臭い相手と格闘しなくて済むのはある意味効率的だ。失敗することもカネも必要ない。だが同時に生きる喜びを失うことになった。なぜなら、まず第一に、私は物理的・身体的な存在だからだ。私は「いずれ宇宙が滅びるならば、なぜ私は生きなければならないか」と問うような哲学的な子どもだった。だがいまは分かる。その問い自体に意味がないのだ。物質である自分の肉体が、自分の外側にある物質とある相互作用を引き起こす過程のなかに、生物が生きる喜びがあるからだ。

身体性にとらわれることは、拘束であると同時に解放でもある。それこそが人々に真の満足感を与えるからだ。

私は、いままで「非本質的」と切って捨てて来たいろんな要素に目を向けてみるべきなのかもしれない。この歳になって少し恥ずかしい気がするけれども、たとえば良い靴でも買って、その身体性を楽しんでみるべきなのかもしれない。カネは掛かる。靴を管理する手間も掛かる。だがそこに人生の喜びのヒントが隠されているのかもしれない。