働かざるもの、飢えるべからず

泣く子も黙るアルファブロガー、ダン・コガイこと小飼弾氏の「働かざるもの飢えるべからず」読了。献本深謝。

数年前に先行して出版されていた本の新書版。ただし内容は一部更新されている。去年の東北の大震災と原発事故についても一部話題に上がっている。

それにしても、奇妙な本である。普通、本といえば、この人がこう言ったとか、あの人がああ書いたとか、自説を増強するための引用をするものだが、この本には一切ない。自分の意見しか書いていない。それも世間の常識だの、学界の定説だの一切おかまいなしにだ。悪く言えば薄っぺらく独りよがりともいえるが、良く言えば潔いともいえるかもしれない。他人がなんと思おうと自分はこう思う、という点を何の遠慮もなく書いてある。

ダン・コガイといえば、ブログ書評界の重鎮。この人ほどいろんな本を読んでいる人もいない。それが何の引用もしないのだから、意図的であろう。引用を省くことによって、話の輪郭をはっきり示そうとしたのではないか。それが奏功してか、すっきりさくっと読める。たぶん2時間もあれば十分だろう。

内容は、ベーシックインカム(BI)擁護論である。

資本主義社会において、消費者は「より良いものをより安く手に入れようとする」。モノが溢れるほど、消費者の目は肥えて行く。その結果、安く高品質の製品を提供できる一握りの生産者だけが一人勝ちをして、その他の全ての生産者は敗者になる。かくして、必然的に優勝劣敗が進み、富の一極集中が起きる。だが、ほとんどの人が、経済競争の敗者であり、カネが稼げないとすると、勝利した生産者にとっても困ったことが起こる。いくらいいものを作っても、カネがない人には売れないからだ。

ダン・コガイはこういう状況は、経済の血行不良であると喝破する。人間の血行不良がそうであるように、治癒のためには血(=カネ)の巡りを良くすればいい。貧乏人はカネがなくカネが使えない一方で、金持ちも金持ちで将来に対する不安が強い現代では思い切ってカネが使えない。こういう状況を打破するには、全ての人に一定のカネが行き渡りかつ安心して消費できる状況が必要だ。その決定打がベーシックインカムだというのである。

ベーシックインカムは、政府が国民全員に最低限の生活に必要なお金を毎月配る制度である。今の日本だったら、一人10万円くらいだろうか。その代わり、生活保護・年金などの他の公的社会保障は全て廃止する(ダン・コガイは障害者に対しては特別な配慮が必要だと述べている)。ダン・コガイは BI の財源として、税率を100% にした相続税を充てることを提唱する。つまり三途の川の向こう側には誰もカネを持って行けないのだから、税金は死んだ後に取られる方が痛みが少なかろう、というわけである。ただし、生前贈与は税率を下げてむしろ奨励する。若い人たちのほうがより切実に生産的な形でカネを必要としているのだから、若い人が消費するほうが社会的には望ましい、と彼は言う。年寄りも、BI があれば安心してカネが使えるし、どうせ子孫にカネを残せないのなら、自分が生きている間に使い切ろうとするだろう。社会の金回りが良くなって、言うことなし、というわけだ。

私も、そういう社会が実現したらすばらしいだろうな、と思う。ただし、残念ながら永遠に実現しないだろう。

特にダン・コガイが大真面目に主張する BI の財源 = 税率 100% の相続税収、は政治的に無理がありすぎる。消費税を数パーセント上げるのにこれだけすったもんだしている国で、どうやったら相続税をいきなり100%に出来るのか?まさに絵に描いたモチ、と言わざるを得ない。政治的に実現不可能な条件を前提とするなら、どんな理想社会を描くのも容易だ。だが容易すぎてやがて虚しくなる。

仮に万難を排して、ベーシックインカムが実現しても、私たちは誰一人と例外なく政府に強く依存することになる。全員が年金生活者になるのだから。それが理想郷だろうか?いやむしろディストピアと言うべきだろう。私はまっぴらごめんだ。

ただベーシックインカムという理念の根底にある問題意識は正しいし、真剣に検討してみる必要があるだろう。

本書で残念な点があるとすれば、ダン・コガイが経済=カネと考えていることだ。実際には、経済とカネはイコールではない。経済とは人間にとって価値あるもの(財)を生産・分配・消費する過程のことであり、それはカネ(貨幣)が発明されるはるか以前から行われていた。かつて農民は、自分たちが消費するためだけに農作物を生産した。そこにカネは媒介しなかったのだ。やがて都市に貨幣経済が興り、周辺の農村に浸透していった。経済全体が貨幣を媒介とする商取引に絡めとられるようになったのはここ数百年のことにすぎない。経済の全面的な貨幣化(monetarization)である。

思考実験をしてみよう。仮に全ての日用必需品やサービスがロボットによって自動的に生産される時代が訪れたとしよう。そのとき人間が「労働」する必要はなくなり、全て「失業者」になる。誰もがカネを稼げなくなるが、同時に有り余るほどの物質的豊かさがある。富はどうやって分配されるのだろうか。

これは極論だけれども、先進国の経済は、この姿に徐々に近づきつつある。ますます多くの仕事に人手が要らなくなりつつある。人間を必要とせずに人間が必要とする以上の物質を生産できるなら、そのとき経済はいったいどういう形を取るのだろうか。私たちは人類史上初めての新しい挑戦を受けている。

この点で、私はダン・コガイと同じ問題意識を共有している。ただ、その解決策は政府が主導する BI ではないのではないか。

これから先、生活必需品はほとんど人手を介さずほぼ自動的に生産されるようになっていく。一方で人手が要らないがゆえに失業した社会の大多数の人たちには、カネがない。カネのない人にモノを売ろうとすれば、売り手はモノの値段を安くするしかないのではないか。この傾向が強まるほど、モノの価格は下がっていってほぼゼロに漸近していくだろう(いまだって100円ショップをみれば同様のことが起きていることがわかる)。「生産過剰のモノをどういう形で分配するか」が BI という発想の原点だとすれば、価格が下がる形でいずれそれは自然に達成されるのではないか。政府の仲介など求めなくても。

その一方で、情報技術(IT) が大量の無料(フリー)なものを生み出している。インターネット上では、あらゆる情報(文章・音楽・映像等)を完全に無料か、ほぼ無料に近い安価で手にいれることができる。たとえば iPad は、わずか5万円ほどの機械だが、かつてのテレビ・パソコン・ラジオ・新聞・CD・DVD・書籍・百科事典・ステレオコンポ・携帯音楽プレーヤー・有線放送等、諸々のものの代替物になっている。すべて買いそろえれば20年前なら100万円を下らないだろう。つまり95万円分の商取引が消えてしまったということだ。これは商売人には悲しいニュースだ。だが、私たちはむしろ以前より幸せになっている。なぜなら iPad は省スペースで省エネであり、どこにでも持ち運びできるからだ。

いま IT が社会にもたらしている大変化は「経済の非貨幣化(demonetarization)」とでも言うべきものだ。それは砂漠化が砂漠の周辺から、緑地を浸食して砂漠に変えるように、非貨幣的な IT 経済の周辺から、貨幣経済を浸食して非貨幣化するのだ。

経済=貨幣経済(A)+非貨幣経済(B)である。古代は貨幣経済(A)は事実上無視できるほど小さかった。数百年まえから貨幣経済(A)が急速に伸長し、非貨幣経済(B)の息の根を完全に止めるかのように見えた。ところが貨幣は、排他的に所有できるモノとの取引では上手く機能する一方で、共有しても少しも減らない情報や知識の取引とは非常に相性が悪い。IT は、情報や知識の生産の中心に位置する技術である。オープソースのソフトウェアが代表例だが、タダで配布される情報や知識が巨大な価値を生みながらも、カネと少しも絡まない例がどんどん増えてきた。いまや非貨幣経済(B)が歴史上かつてない速度で拡大しつつあるのだ。そして、じわじわと貨幣経済(A)を浸食しつつある。(ここらへんの事情はこの文章が非常に的確に指摘している。フリー、シェアの次に何がくるのか? « trans;)

イメージ的にいうと、経済=貨幣経済(A)+非貨幣経済(B) といっても、いまは A:B = 9:1 くらいだろう。これから非貨幣経済(B)がどんどん大きくなっていって、比率が逆転し、最終的には A:B = 3:7 か 2:8 くらいになっていく。そして、非貨幣経済(B)で生きる人たちは、その溢れんばかりの価値のごく一部をときどき金銭化(monetize)して、貨幣経済(A)におけるモノの購入に充てるようになるだろう。わざわざ政府が BI をやるまでもなく、誰もが食うには困らなくなっているだろう。

私はこういう形で事実上の BI が将来自然に発生すると考えている。

本書でもう一点高く評価したいのは、ダン・コガイが死生観について言及している点だ。とくに老人の経済活動を考えるときに、死をどう位置づけるかは避けて通れない。誰も永遠に生きられない。やがて来る老いや病や死をどうとらえるか。ダン・コガイは無理な延命は自然に反する行いであり、どうしても延命したいと考える人はそのコストを十二分に負わせるべきだと述べている。私は、彼の死生観に100%同意するわけではないが、この厄介で避けられがちなテーマに正面から切り込んでいる勇気は買いたい。

人間・ダンコガイの人生・社会観を素直に吐露した一冊。来るべき社会について考えている人は、頭を柔らかくするために読んでみてもいいかもしれない。