多様性は豊かさだ

昨日、新横浜にある横浜ラポールという障害者向けのスポーツ施設に行ってきた。ときどき車いすの人や松葉つえをついている人たちは見かけたが、多くの人たちは外からみる限り、健常者とさほど変わらない。もちろん、介護者もおおぜいいるので、誰が健常者で誰が障害者かはよくわからない。

私は、障害を持つ方々たちとは大きなかかわりを持つこともなく暮らしてきた。私が子供のころ、母が福祉関係の仕事をしていたので、遠目に車いすに乗った脳性麻痺の重症心身障害者を見たことはあるが、そのときは、自分とは異質な怖い人たちという印象だった。そのころは、私は外国人に対しても似たような思いを持っていて、怖がりの小心者だったのかもしれない。

障害者と外国人は、社会参加する上にさまざまな障壁に直面しているという意味で似ている部分がある。私がそれを痛感したのは、29歳でカナダに渡ったときの経験だ。とにかく英語ができない。英語がしゃべれない、聞き取れない。私は、人並み以上の口達者で、日本では言語的コミュニケーションで困ったことはなかった。私は、生まれて初めて「弱者」の立場から物事を見た。言語が自由に使えない環境はこんなに不便なものなのか、と。そんな私を一生懸命支えてくれるカナダ人たちがいて、彼らの尽力にはいまだに深い感謝の念を持っている。

私は、自分が外国人として外国に長く暮らしたことがあるので、日本にいる外国人に対しても共感を持っているし、日本が彼らにとって住みやすい国であってほしいと願っている。現実には、定住外国人の多くが家さがしや就職に関して差別を受けて苦しんでいる。

なぜ日本人は外国人たちを受け入れないのだろうか。外国人は、見かけや行動様式が異なる。伝統的に日本列島に住んできた日本人とは明らかに異質な人たちである。異質な人たちに、恐怖心を持つのは、日本人に限らず万国共通と言ってよい。

だた、日本が特別なのは、19世紀半ばまで続いた200年間の鎖国政策のため、庶民レベルで外国人との交流が全くなかった点である。その後遺症で、日本人の多くがいまだに外国人と何の接点もなく日本人だけのコミュニティの中で暮らしている。こういう環境にあっては、異質な外国人をついつい避けたくなるのはむしろ自然な心情だろう。ましてたいていの外国人は、日本人より押しが強いし、空気を読まず、明示的な契約がなければ周りを察して行動を抑制したりしない。空気を読むことを期待した日本人が、空気を読まない外国人に裏切られたように感じて、嫌悪感を抱くということもあるだろう。

先日ネットで読んだ記事にはこう書かれていた。「南米出身の日系人たちが、自分たちが住むアパートで夜中大声を出して騒ぎ、ゴミを二階の窓から投げ捨てるので、近所の人たちは困り果てた。これでは、外国人とは一緒に暮らせない」と。この場合は、この外国人たちと膝つき合わせて話し合う必要があると思う。多くの場合、彼らは、日本と外国の習慣の違いを知らないだけなのだ。話し合えば、必ず落としどころは見つかるはずだ。「そんな話は言わずもがなであり、察するのが当然である」と日本人は言うかもしれない。確かにそれも日本文化の一部であるかもしれないが、この点は、日本人も譲歩して、はっきり言葉で自分の気持ちを相手に伝えるということを学んでいかなければならないだろう。きちんと説明すれば、日本のルールが著しく不合理でない限りは、たいていの外国人は日本のやり方に従ってくれると思う。それでも日本社会のやり方に従わない外国人は出て行ってもらうのも仕方あるまい。「郷に入りては郷に従え」は世界共通のルールである。

だが、外国人と腰を据えて付き合ってみると、実に面白いのである。日本文化とは全く異なる新しい発想。こういう異文化体験から学ぶことは実に多いのだ。もし日本に住む日本人たちに、外国人と付き合う面白さがわかってもらえれば、この閉鎖的な日本社会にも少しずつ風穴が開いていくように思う。

基本的に日本人が外国人との接触を増やしていくことで、彼らの存在を異質に感じることが減っていくだろう。ただし、この接触は、外国人を理解し付き合いを楽しもうという肯定的な意識のもとに行われなければならない。戦前の日本人は、朝鮮人や中国人という異文化の人々と多くの接触を持っていたが、残念ながら上から目線のたいへん差別的な付き合い方であった。これではむしろ異文化に対する偏見を助長するだけになってしまう。肩ひじ張らず対等に付き合いを楽しむテクニックを実践的に学んでいく必要があろう。

私がいままでお付き合いする機会がなかった障害をもつ方々ではあるが、実際におつきあいする機会があれば、いろいろと新しい発見があって興味深いのではないかと思う。私がこういう風に思うようになったのも、異文化を持つ外国人との付き合いを通じてだ。もちろん、容易な話ばかりではない。腹が立つことは多々ある。それでも、多様性は豊かさだと思う。障害をもつ方々を取り巻く環境について不勉強であるので確信はないが、おそらくは、障害を単なる厄介ごとではなく個性であり、社会に多様性をもたらしてくれるものだと捉えることが重要なのではないだろうか。それは外国人についてもまったく同様である。

重要なのは、観念的にならないことである。実際に行動してみることが重要だ。生身の人間と付き合ってみると、想像していたのとはいろいろと違うはずだ。その意外さを楽しむこと。それが学びや成長につながるのではないだろうか。

障害者も外国人も、社会に広く受け入れるためには、一定のコストがかかる。しかし、彼らが社会に多様性をもたらし、新しい豊かさをもたらしてくれるとしたら、そのコストにも意義があるのではないか。戦後の日本はひたすら経済的な豊かさを求めて突き進んできた。その目標を達成したいまこそ、その経済的果実を精神的に豊かな社会を作るために投じるべきではないか。それは多様性の承認であり、さまざまな個性を持つ人たちが共存して生きる社会的包摂(social inclusion)なのだ。