怖がり屋

私は昨日、本気で今すぐベトナムに渡って仕事をするつもりだった。だが、そう決意をした数時間後、なんともいえない恐怖が襲ってきて、その決断を覆さざるをえなかった。

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私は、子供のころから怖がりである。高所恐怖症だったし、他にもいろいろ怖いものがあった。優しい言い方をすれば「繊細」だった。自分のやりたいことの方向にどんどん突き進むタイプではなかった。

私はこの恐怖の源泉がどこにあるかは知らない。生まれつきの脳の仕組みに基づく器質的なものなのかもしれない。あるいは幼少期のいくつかの経験がトラウマとなって引き起こされたものなのかもしれない。

私が内省的な子供になったのは、言語の力によって、この恐怖に対抗し、言語で作り上げた幻想の世界に住むことで、かりそめの安定感・安心感を得るためであった。

だが、この精神安定の仕組みには大きな副作用が伴っていた。それは世界から溌剌とした躍動感を失わせ、生きる喜びを失わせたのだ。つまり世界は「退屈」なものになった。

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私が常に人生にどこか退屈さを感じながら生きていること、ときどき突拍子もないことをしてこの退屈さを打ち壊してその一瞬だけ生きている感覚を取り戻すもののすぐに恐怖心からもとの退屈な日常に戻ろうとすること、何をしても長続きしないこと、人や組織と継続的な関係(コミットメント)を持つことができないこと、それゆえにいつも人生に対して表層的な満足に止まざるを得ないこと、常に前に向かって突進しつづけているように見える起業家の人たちに深い憧憬の念を抱いていること…。こうした私の人生の繰り返されるパタンは、私のこの根源的な恐怖を言語の力によって封じ込めようというこの戦略と関係している。

これは、私にとって精神的な牢獄である。私は、この恐怖から逃れて、もっと自由に感じ自由に生きたい。しかし、いくらそう願ったところで、恐怖は私を解放してくれない。私は、ときどき、この「自己や環境に対する制御をすべて失う感じ」を抱いてパニックに陥り、そういう状況を与える事物から全力で逃走することがある。これは私の人生においてきわめて有害なパタンであり、こうした事態を避けるためには、大幅に安全マージンをとって行動せざるをえない。つまりパニックが起こりえない安全領域を慎重に歩む、きわめて保守的な生き方を強いられる。つまり「退屈」な生き方だ。

結局のところ、進歩は漸進的にしかやってこないのだろう。恐怖の核心に対して正面突破を試みるのではなく、漸近しつつ少しずつ日常圏から離れて負荷を上げていくこと…。つまらない話だがこれしか私の活動領域を広げていく方法はないのかもしれない。

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私は、この数年間、いわゆる「普通の働き方」をしてこなかった。何が普通かは議論が分かれるところだろうが、サラリーマンの家庭に育った私にとって「普通の働き方」とは、週5日は、家から離れた場所にある職場で働くことだ。私は、細々とした自営業をやってきたので、家で仕事をすることが多かった。ITをメインにして自営業をしている頃はよかったのだが、それ以外の仕事では残念ながら生活を支えるだけの収入を得ることができなかった。だから、これから数ヶ月間、そういう「普通の働き方」を日本で試してみようと考えている。

私もかつてはそうやって普通に働いていたのだが、当時からこの働き方は私にとって快適ではなかった。いまからやってやれるものなのかどうか。やれるとしたらどれほど苦痛なものなのか。私は性格からしてこれからもずっと自営業を続けていくだろうが、経済状況によっては「普通に働く」ことを強いられるかもしれない。リスクに満ちた人生で「普通に働くことも苦手だが不可能ではない」という保険がほしい。たぶん人生に根源的な恐怖を持たないひとたちは、そんな保険をかけることなく人生を突き進んでいくのだろうが、私は残念ながらカッコいいアニメのヒーローじゃない。私は怖い。でもこの恐怖を乗り越えたい。だから保険を掛けるのだ。

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私がこの数年間、人生の荒野をさまよう経験の後に得た教訓は、「収入は少なくてもいいから絶対にゼロにするな」だ。必ずしも常に貯金できるほど稼ぐ必要はないが、人間は常に何らかの形で働きつづけ、収入を絶やさないことが重要だと思った。仕事は、灯火に似ている。たとえ煌々と燃え上がらなくても、種火があれば、可能性は残る。一つの仕事はたいてい次の仕事につながるものだ。そうやって仕事をしつづける限り、生き残ることができる。ヒーローではないその他大勢である私たちにとっては、どんなにかっこ悪くても生き残ることがまずは肝要なのだ。そして生きていればよいこともいずれ必ず起こるはずなのだ。