マッチョたちの時代

もはや、働かなくてもかなり豊かに暮らせるようになった旧世代のある中年は、

「もはや、私たちの役目は終わった。我々はもう経済を支えなくてもいいんだ。

マッチョたちに任せておけば、日本は安泰だ。

金を稼ぐのはマッチョの役割。ゆっくり余生を楽しむのが私たちの役割だ。」

と言いながら、寂しそうに笑った。

分裂君の力作エントリ。彼の未来予測モノはなかなか楽しめる。分裂君自体は、日本はこんなふうにならないだろうな、と思いつつ、ウィンプな人々がどんなふうに反応するか探りを入れようと書いたのだろう。なかなか人が悪い。

たしかに、マッチョ主義は大変そうだけど、実はなんていうことはない、アメリカがそんな社会なのだ。もちろん、アメリカには、キリスト教的なセーフティネットがあることは忘れてはならない。(向こうでは、寄付やボランティア活動はごく普通に生活に溶け込んでいる)

あともうひとつ。中国がそんな国だ。この国には宗教的なセーフティネットすらない。社会主義の看板はまだ掲げているが、政府は人民を保護することをとっくに放棄してしまっている。そんな国だ。

中国に住んでいたのはもう4年近くまえだからいまは変わったかもしれない。当時、中国は、まともな社会保険制度がないらしく、病院はいつもニコニコ現金払いだった。この現金払いは実に徹底していて、まず医者とアポをとるために小金を払う。小金さえない人々は、ここで門前払い。そして医者から治療メニューを出してもらい、またそこで支払い。いくら病気で注射が必要だと診断されても、ここでカネをあらかじめ払わないと注射も打ってもらえないのだ。

私の住んでいた学生寮の裏門をすぐ出たところに、毎日田舎からパパイヤを担いできて、売りに来るおばちゃんたちがいた。彼女たちは、道端にムシロを敷いて、客が来るのを忍耐強く待っている。注文すると、日本では数百円はするであろうパパイヤを、食べやすく目の前で剥いてくれて、1個たったの5角。(10角=1元だから、10円もしないわけだ)そのパパイヤおばちゃんたちに泥をかけながら、ピカピカの新車のベンツが走りすぎていく。とんでもない格差社会なのだが、そのおぼちゃんたちはさして不幸そうにも見えなかった。中国人というのは、もともと独立志向が強く、雇われることより、小さくても自分でビジネスを営むことをよしとする風潮がある。彼女たちは、たとえ持っている資本が背負う籠とムシロ一つでも、自分で自分に飯を食わせている誇り高き独立自営業者なのだ。だから、おばちゃんたちの表情は、誇りに満ちているというのは言いすぎにしても、すくなくとも卑下した様子はみじんもなかった。

私たちが考えなければならないのは、いま日本人は国際社会でこういうひとたちと競争しているという事実だ。マッチョであるべきかどうかは、もはや選択の問題ではないのかもしれない。