ニコニコ動画革命

皮膚の下の身体は過熱したひとつの工場である。
そして、外で、
病人は輝いて見える。
炸裂した
そのすべての毛穴から
彼は輝き出す。
ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス」)

ニコニコ動画は真の意味で革命である。
iPhone が黒船ならば、ニコニコ動画は革命の地下組織である。
ひろゆきほど過小評価されている人物はめずらしい。
私がエスタブリッシュメントだったら、私は彼を闇に葬り去るだろう。
なぜなら、彼は危険分子だからだ。
情報流通の既成秩序を根底から覆すことになるからだ。

遠心力は、永遠に中心を逃れるわけではなく、再び中心から遠ざかろうとして、新たに中心に近づく力なのである。個人の自分自身のだけを求めて、自分がその一部をなしている円環を見ない限り、このような激しい振動は個人を圧倒することになる。この振動が個人を圧倒するのは、自分が見出しえない中心に立つならば、振動のひとつひとつが、自分自身だと思い込んでいるのとは別の個人に対応しているからである。したがって自己同一性は本質的に偶然的で、あれやこれやの自己同一性の偶然性が、様々な個人性を必要とするためには、
それぞれの同一性が一連の個人性を遍歴しなければならないことになる。
(同上)

ニコニコ動画を作っているのは誰か。動画作成者か。編集者か。投稿者か。それとも「弾幕」と呼ばれる流れるコメントを書く人々か。お行儀のよい JASRAC 風の著作者などどこにもいない。存在するのは、無数の名前を持たない「彼ら」だ。孤立し固定された「主体」などというものはどこにも存在しないのだ。

人物に同一化することではなく、歴史上の名前を器官なき身体の上のもろもろの強度的地帯に一体化すること。だから、そのたびに主体は叫ぶのだ。「これは私だ、だから、これは私だ」
(同上)

ニコニコ動画は、巨大な先祖返りである。資本がこの社会を隅々まで覆う前の時代には、人々は常に生産と同時に消費していたのではなかったか。目に見え、声が届く範囲の人たちに向かって、語り、歌い、踊って、共に楽しんだのではなかったのか?そこには、舞台と客席、演者と観客の区別はなかったはずだ。

ニコニコ動画はカネにはならないと、ひろゆきはいう。彼がこういうとき、彼はそれを当然のことと考えているはずだ。それが証拠に「金儲けより、面白いものを作りたかった」と述べている。

ひろゆき氏 いまネットにかかわる大企業は、“面白いものを作ろう”という考えより、お金儲けがメインになっていると思うんです。

ネット上でビジネスをしていて有名な人といえば、孫さん、堀江さん、三木谷さんという名前が挙がりますが、彼らは株式市場にメッセージを出している人たちで、面白いものを作ったのかというクリエーター視点やユーザー視点で見ると、ない気がするんです。それはそれでいいことなんですが、僕はユーザー視点から“面白いもの”を作ったほうがいいんじゃないの? と考えました。

(中略)

無駄と思えるものに価値や意味がある。ニコニコ動画のコメントは無駄だから読んでもしょうがない、と言われますが、あえて無駄なものを集めてみると、それが面白いんじゃないかと思います。

ニコニコ動画の主な収入源は Google と同じく広告収入になるだろう。ただ、ニコニコ動画にとっては、それはあくまでも自分の物理的身体を維持するための方便にすぎない。本当の付加価値は、ユーザによるコンテンツの生産=消費そのものから作り出される。太い通信回線を維持するために巨額のカネが必要であったとしても、資本主義社会の表面にひょいとひっかかっているだけであり、本質的には資本主義を超えた存在なのだ。そこがニコニコ動画の革命的であるゆえんである。