行動するために学び考えるということ

お久しぶりです。ご無沙汰していました。

ここ数週間いろんなことを考えてきました。その過程で、私にとって重要な気付きがありました。それは、自分が考えたことをどれくらい実行に移せているのだろう、ということでした。

私は、勉強のよくできる子供でした。子供は、勉強するのが仕事とばかり、何に使うのかもわからないまま、いろんな知識を頭に詰め込んでいきました。頭が知識で満たされるにつれて、自分が単に知っていることと、実際に経験したことや身体を動かしてできることの間の区別があいまいになっていきました。

私がいままで人生を通じて感じてきた根本的な不満感は、ここに原因があったように思います。人間は、自分の身体を動かし、人に語りかけ、現実を変えてこそ、生きているという実感を感じることができるのではないでしょうか。ところが、私は知識ばかりが先行して、かえって行動の妨げになっていたような気がします。

たとえば私が、日本社会のある部分に不満を感じたとしましょう。それがいかに問題か、理路整然と批判することは難しくありません。しかし、そうやって、問題をあたかも自分自身からまったく切り離されたものとして、ショーケースに陳列するようにして、客観的な批判をくわえたところで、それが自分にとっていったい何の意味があるでしょうか?現実には、私自身が、日本生まれの日本人であり、たとえ1億分の一にすぎなくとも、日本の現実を刻一刻作り出している当事者なのです。

現実は、思考するだけでは絶対に変わりません。それは誰かが何らかの具体的な行動をとることによって、初めてゆっくり変わっていきます。一足飛びに理想に近づくことはできませんし、時には後退することさえあるかもしれませんが、それでも行動することによってしか、現実は変わりません。

批判のための批判は無意味だと思うようになりました。以前は全面的に受け入れていた「コンサルタント」「学者」と呼ばれる人たちのいうことに少し警戒感をもつようになりました。彼らは、確かに理論的には筋道の通ったことを言うのですが、現場で実務をこなしてきたひとたちではありません。文学などで、言葉それ自体を楽しむという分野があってもよいとは思います。しかし、政治や経済に関する言論は、政治の改善や経済の発展を通じて、人々を現実により幸せにすることを目標とするべきではないでしょうか。

仮に日本社会に問題があったとします。その問題を成り立たせている構造を理解することは、確かに問題解決への第一歩です。しかし、その次に来るべきは「この問題に対して自分がどう行動すべきか」という問いではないでしょうか?その答えは「あきらめて受け入れる」でも「問題を回避するように行動する」でも「問題を直接解決するように行動を始める」でもいいと思います。ただ「あきらめる」と決めたなら、もう二度とこの問題に関しては不平不満をこぼすべきではないと思います。いちばんいけないのは、どっちつかずの態度であり、あきらめることも行動することも始めないで、ひたすら批判に批判を繰り返す態度ではないでしょうか。

私は、このブログでは、今後、社会批判的なことを書くことは控えることにします。代わりに、そういう思いが胸に沸き起こるたびに、「この問題に対して、おまえはどういう行動を起こしたいのか?」と自問します。そして、その行動の過程と結果だけを書いていこうを思います。

人の命は有限です。この限りある時間を有効に使うために、今後は私は現実を変える可能性のある行動に焦点をあわせ、それに有用な知識だけを吸収し、それに有用な議論だけをしていきたいと思います。もう知識のための知識を得る時期は私にとって終わりました。そんなことで時間を浪費できるほど人生は長くないのです。