インドネシア・中国旅行記
5月下旬から10日ちょっと、インドネシアと中国を回る旅に出ていました。その間、書き溜めていた旅行記を公開します。
基本的に、
- 5月23日〜5月28日 インドネシア
- 5月28日〜6月3日 中国
という感じでした。
むっちゃ長いので、お好きなところから読んでいただければ結構です。
個人的には、やはり中国の強烈さが印象に残っています。う〜む、中国。奥深い国です。
ではでは、ごゆっくり〜。
2008年5月23日(金)
朝 6:45 頃のバスを高田馬場2丁目から乗り、新宿西口へ。そこから、リムジンバスで成田へ。前日、大学時代の後輩と飲み、寝るのが遅かったため、眠い。成田空港には、早めについた。出国ゲートをくぐると、やることなく結局インターネット接続を買って、ニコニコ動画を見るはめに。いつもとやっていることが同じじゃん。
定刻どおり香港行きの飛行機が飛び立つと、晴天のため思いの他、地上の風景が美しい。とくに富士山の美しさに感動した。
東京を出発して約4時間。飛行機の窓の外に中国大陸の切れ端が見え始めた。実に4年ぶりの中国である。
見ると3列ほど前方の座席で、一部の乗客と乗務員が騒いでいる。どうやら急病人が出たようだ。しかし広東語で鋭くしゃべっているので私には彼らの表情で状況を推測するしかない。日本語の通じない世界! Welcome back to the outside world! なんという解放感であろうか。
香港に飛行機で来るのは、これが2度目だ。この前は街中の古い空港だった。今度は、島に作られた新しい空港。エメラルド色の海に小島が点々と散らばっている。気が付くと香港の整然とした高層ビル街が眼下に広がっている。雲の中に突入した。雲を抜けるとわれわれは青々とした山の頂を掠めるように飛んでいく。城壁に囲まれた要塞のような建物が山の斜面に見えた。山々はやはり禿げた頂を持つものが多い。
海の上に出ると、海面がどんどん近づいてくる。風があるのか少し揺れる。滑走路だ。着陸した。後方で中華系と思しき乗客の一部が歓声を上げた。広々とした空港だ。アメリカの空港に似ている。香港の空港は想像通り近代的で清潔な美しい空港だった。それにひきかえ、最近の老朽化を見ると、成田空港はいかにも見劣りする。
16:00 にジャカルタへ向けて離陸。下界がふたたびみるみる小さくなっていく。香港を出て30分、海南島の沖合を飛んでいるとき、小さな小さな島が自分の体より大きな滑走路を抱え込んでいるのを見た。あれは何だったのだろうか。
ジャカルタに到着し、T君の出迎えを受ける。T君は、私の大学時代の友人で、日系企業のジャカルタ支店に勤務している。彼に Blok M にある和風の居酒屋でもてなしを受ける。日本からはるばるやってきて、ふたたび刺身と枝豆でビールを飲むのはなんだか不思議な気分だ。
2008年5月24日(土)
ジャカルタ・インドネシアのT君宅で目覚める。ここはメイドとプール付きの高級コンドミニアムである。彼だけでなく、日系企業のジャカルタ駐在員は、こうした暮らしぶりが多いようだ。T君の次男坊である、たかしくんはとてもやんちゃで人見知りをしないかわいい3歳の男の子である。僕は、彼のドロップキックで目が覚めた。まだ朝6時だった。午前中、T君の奥さんとしばらく話をする。T君の奥さんが困っていたので、プリンタの修理と gmail の紹介をしてあげる。
T君は、仕事で街中に出かけていったので、僕はT君の奥さんとたかしくんとゆうかちゃん(長女)と街中の見物にでかけた。運転するのは、T君の奥さんではなく、専属の運転手である。最初に行ったのは、日本人向けのお土産屋さんであった。インドネシアってお土産にはいいものがいろいろあるんだな、と思った。そのあと、バザールで、インドネシアで初めての買い物をした。買ったのは、jeruk Bali という巨大なグレープフルーツのような果物。"Berapa?"(いくら?) と聞いたら "Sepuluh (ribu)"(10,000 rupiah) と言っているのが聞き取れたのは、おもしろかった。そのお店の男は "Bagus!Bagus!"(いいよ!) って言っていたけど、本当かしら?
モナスという大きな塔の見物したあと、インドネシア最大のモスクの見物に出かけた。そのモスクの礼拝堂はいままで見たあらゆる宗教施設のなかで最大だった。イスラム教は、偶像崇拝を嫌う。その礼拝堂は、体育館をさらに巨大にしたような空間で、完全な幾何学模様によって装飾されていた。素晴らしく美しかった。
T君とグランドホテルで待ち合わせ。街の北部の中華料理屋でエビとカニを食べる。日本料理の食材屋で、夕食の買い物して、T君宅帰着。たかしくんの強い希望により、T君とたかしくんと私の3人で、コンドミニアム付属のプールに出かける。たかしくんは、話のとおり、3歳児とは思えない泳ぎのうまさだった。
夕飯は、T君宅でみんなで手巻き寿司を食べた。
このコンドミニアムはまるで要塞みたいだ。ここだけ隔絶して生活水準の高い人たちが住んでいるため、入り口でのセキュリティ・チェックが厳しいためだ。T君の子供たちは、このコンドの敷地の範囲を越えて外に遊びにいくことはない。(そもそも、ゲートを出てすぐの空間は、歩道のない車道になっていて、このコンドの住人が歩いて外に出ることはまずめったにない) 「上流階級」の苦労というものがはじめて分かったような気がした。相対的に周囲より極端に高い水準の生活をしていると、防衛的にならざるを得ないのだ。
T君のもてなしから得られる体験は、インドネシア人の庶民の生活からはかけ離れた世界ではあるが、ある意味で貧富の差が激しいインドネシアの一面をよくのぞかせているともいえる。
(T君の家族の名前は仮名です)
2008年5月25日(日)
今日はジャカルタ南方の郊外にあるサファリパークに行った。T君の家を出て、近代的な高速道路を1時間ほど走った。高速を下ると、そこはインドネシアの田舎の風景だった。狭く左右にうねった道の両側にさまざまな店(雑貨屋・レストラン・自動車修理工場)がたちならび、例によって多くの人々が何もすることなく、立ったり、座ったり、横たわったりしている。
T君一家と私は、サファリパークの入り口付近で、車道沿いに無数に並ぶ出店のひとつから、車から半身乗り出して、ニンジンとバナナを買った。サファリパークでは自動車の窓を少しあけて、これらのニンジンやバナナを動物たちの口に差し込んだ。子供たちは、おおはしゃぎだ。カバの口の中はきれいなピンク色で、ひどく大きかった。
サファリパークを出てさらに南に向かい、山の峠に出る。ここに瀟洒なレストランがあって、インドネシア料理の昼食を取った。とても美味。聞けばここはちょうど軽井沢のような避暑地だそうだ。たしかに T シャツ一枚だと肌寒いくらいだった。
2008年5月26日(月)
今日は、私ひとりで行動する日とした。T家の専属運転手に Gambir station(stadiun Gambir) まで送ってもらう。途中、私は彼に片言のインドネシア語で話しかけた。彼には25歳の息子と14歳の娘がいるそうだ。息子さんはまだ大学生だそうだ。
インドネシア語を一月学んだだけで、この程度話せるのは上出来だ。世界一やさしい言語・インドネシア語。そして言葉だけでなく人もやさしい。インドネシアの建物やインテリアのデザインは、バリのそれをみてもわかるように美しく素敵だ。同じような経済発展段階にある中国と比べると、人々はずっと優しいし、静かだし、デザインセンスはいいし、そういう点に関しては中国人より付き合いやすい気はする。
Gambir 駅で バンドゥン(Bandung) 行きの eksektif チケットを一枚買う。バンドゥンまでおそらく200kmくらいはなれているのに、最高級車のチケットがわずか 35,000 ルピア(400円)。やすっ。しかし車両はそれなりで、ひじかけの金具が壊れていた。本当は Argo なんちゃらという旅客専門会社の列車に乗りたかったが、私のは国鉄の車両だったようだ。整備がきちんとしているとはおせじにもいいにくい。ま、日本も国鉄はひどかったけどね。
プラットフォームで待っているとどこかで見たような電車が目の前に。東急線の車両だった。車両のサインには「試運転」「鷺沼」の文字が。やれやれ。この国の人たちはわざわざインドネシア語のサインに交換したりしないようだ。
バンドゥン行きのディーゼル列車が動き出してすぐ、隣に若いきちんとした身なりのインドネシア人が座った。片言の英語とインドネシア語の会話が始まった。彼はホテル勤務で、これからバンドゥンのオフィスへ行くという。インドネシア会話の本を2人で見ながら、しばらく世間話をした。優しい感じのよい好青年という印象だった。
しばらくして、彼は "I smoke" とタバコをくわえる仕草をして席を立った。不思議なことに彼は列車がバンドゥンに着くまでついに戻ってこなかった。読みかけの新聞を残したまま。彼はどうしてしまったのだろう。まさか3時間の間ずっとタバコを吸っていたわけでもあるまい。いちばんありうる可能性としては、彼はもともと一等車のチケットを持っていなかったのかもしれない。とすればタバコを吸うために退席するという言葉自体がそもそも嘘だったのかもしれない。
T君の家で彼の奥さんから聞いた話をふと思い出した。彼女の知り合いの話だそうだ。ある日、メイドが泣きながらこう話した。「故郷の父が亡くなり、帰郷しなければなりません。まことに残念ですが、お暇をください」と。そのメイドの雇い主である日本人家族は、哀れに思い、退職金と香典を包んで渡してやった。ところが彼女はその次の週から隣のアパートメントでメイドとして働き始めたという。
T君の奥さん曰く、インドネシア人は平気で嘘をつくという。それ自体には腹が立つが、インドネシア人は、ことを荒立てるのが嫌いで、その場しのぎの嘘をつくという。いわば優しさ故の嘘である。
車窓には、インドネシアの田園風景が広がっている。オレンジ色の瓦の家ばかりである(オレンジ色以外はまるで見かけない)ボロ家が多いが統一性があるので、それほどかっこ悪くはない。
バンドゥンの街は予想以上にすさまじかった。バザールの人ごみに圧倒されてしまった。そこで見物もそこそこ駅に戻った。
ロンビールの駅のタクシーは、メーターも倒さずに 15万ルピアと吹っかけてきたので相手にせず、駅から少し離れた場所で流しのブルーバード・タクシーを拾った。結局、T君宅までメーターで5万ルピアだった。
2008年5月27日(火)
午前中は、日本人向けのしゃれたおみやげ屋をまわって、おみやげを買い込む。インドネシアにはいろいろとしゃれたものがたくさんあって、おみやげには困らない。
昼食は、T君のおすすめのインドネシア料理屋。実にうまかった。T君と越し方行く末をいろいろ語り合った。
午後は、T君の奥さんのアンクロン教室へ。アンクロンは、インドネシアの竹で出来た木琴のようなもの。素朴な音色が美しく、思わず癒される。
2008年5月28日(水)
今日は、香港へ向かって旅立つ日である。朝、たかしくんとお別れした後、T君の奥さんと彼女の「奥さま」友達2人とおみやげ屋をまわる。私は、BATIKのインドネシア地図を買う。11時から PLAZA SURIYAN の日本風ファミリーレストランでT君と奥さんと昼食。ここで彼らとお別れした。いろいろ本当にお世話になりました。
タクシーでスカルノ・ハッタ国際空港へ。10万ルピアもかからなかった。
インドネシアよ、さらば。インドネシアは楽しかった。インドネシア人は優しい。美的なセンスがある。とくに頼りなく不正直だとしても。
2008年5月29日(木)
やれやれ中国だ。中国はまったく疲れる。つか疲れた。昨日遅く到着した香港ラッキーハウス。ここは中国を backpacking する日本人で知らない者はいない有名な安宿だ。しかし、インターネットが導入され、冷房が効き、風呂は温水が使えるようになっていた。4年でなんという進歩だろう。汚さは相変わらずだが、少し怪しさが減ってしまって残念だった。
朝は猛烈な蒸し暑さの中、土砂降りの雨だ。ラッキーハウスのそばの、通称「屋台収容所」で朝がゆを食べた。わずか 11HK$(150円)で、非常に美味であった。ここのおじさんは香港人にしては珍しく愛想があり、普通話を解する。
市場で T シャツとドリアンのカットを食べた。ドリアンは、においを考えると宿では食べられないので、道端にしゃがんで食べた。
12時にタクシーに乗って、九広鉄道・紅ハム(Hong Hom)駅へ。ここから中国との境界・羅湖駅(Lo Wo)へ。ファーストクラスに乗ってみたが、たいした違いはなかった。
まず香港側で出国し、狭いドブ川を渡って、深セン側で中国に入国。中国に入ると、ここは同じ羅湖でも Lo Wo(広東語) ではなく Luo Hu(普通話) と呼ばれるようになる。深センは驚くほど発展していた。4年前あれだけ悩まされた客引きはもういなかった。駅前の広場は清潔で、しゃれていた。地下鉄も清潔で快適だった。華強路の駅で降りると、そこは巨大な電気街だった。高層ビルが立ち並んでいた。いまやオタクとヨドバシカメラの街になってしまった秋葉原と違って、これらの高層ビルの中には、あらゆる種類の電気部品を扱う小店が所狭しと詰まっているのだ。昔の秋葉原みたいだった。僕は「これから日本はどうなるのだろう」と思った。
深セン空港は4年前にくらべてずっと大きくなっていた。そして中国人の旅客が非常に増えていて驚いた。4年前も空港施設は立派だったが、乗客は少なく外国人が目立った。深センはわずか30年前はほとんど人が住まない寒村であったのだ。なんということだろう。トウ小平が生きていたら何と思うだろう。僕は、この中国社会の持つダイナミズムに感動して背筋に戦慄が走った。人の世の不思議さよ。
これから江西省・南昌に向かう。南昌はちょうど、ここから上海との中間あたりに位置する街である。南昌では、私の中国留学時代の友人であり、現在、南昌の大学で日本語を教えているあきえさんが待っていてくれている。あきえさんは、ちょうどドラマ「ごくせん」の仲間由紀恵をカタギにしたような、熱血美人教師である。仲間由紀恵と違うのは、教え子たちは、不良男子ではなく、純朴な女子学生たちが大半ということだ。それでも、日本人にとってはなかなか難しいことの多い中国社会で、組織に頼ることなく一人でたくましく生きている姿は尊敬に値する。
飛行機は天候が悪いと言っては1時間遅れ、機体整備不良で、さらに3時間遅れた。中国人たちは飛行機の中に閉じ込められて憤慨の声を上げていたが、その間、私はとなりに座った人のよさそうな「おじさん」と話をした。見るからに「おじさん」なのだが、まだ歳は35歳だという。彼は大学を出て建設技師をしているという。中国人で飛行機に乗る人はたとえばこんなひとなのだろうか、と思った。
南昌空港にようやく到着したのは、予定を大幅に遅れて深夜であった。あきえさんともう一人、若い中国人男性が私の到着を待っていてくれた。深夜でもう定期バスは終了していた。客待ちをしていたタクシー運転手たちが、荒くれ者ぞろいでびっくりした。客引きなどという生ぬるいものではなく、怒号が飛び交った。一台のタクシーは自分より前に並ぶタクシーを追い抜くために、縁石を乗り越え、歩道を走り抜けていった。そのため我々があやうくひかれそうになった。 あきえさんが連れてきた中国人男性がタクシーと価格交渉をやってくれた。あきえさん曰く、こういう交渉は中国人にしかできないとのこと。やがて交渉が成立して、我々は一台のタクシーに乗り込んだ。タクシーは明かりのない真っ暗な闇の中を走り抜けた。暗闇の中で見る道路沿いの建物は、ほこりっぽくぼろい感じがする。あきえさんは、大学の隣の旅館を用意してくれていた。40元/部屋。値段の割りに、なかなか快適な部屋だった。
2008年5月30日(金)
朝、あきえさんは、旅館のすぐ下まで迎えにきてくれた。そのとなりには、色白で丸顔のかわいらしい女子学生が立っていた。彼女は、あきえさんの教え子だ。名前は、劉歓(リュ・ホアン)、下の名前を日本語読みして、通称カンカンである。あきえさんは、運悪く時間が仕事が忙しくて私の相手をする暇がないということで、ピンチヒッターとして、カンカンが市内を案内してくれることになった。
午前中、カンカンと市内観光。かつていた海南島の海口よりは整然とした印象。いまは海口も発展しているだろうから、直接の比較は難しいだろうが。八一広場で、くつみがきのおばさんにぼられる。はじめは1元といっていたのに、あとで2元と言ってきた。彼女の言い分は追加サービスをするか、1元余計かかるがかまわないかときちんと確認したという。しかし、カンカンによると、南昌語で言ったから彼女もよくわからなかったという。(彼女は西安出身)
結局、2元払ったが、カンカンに「ちゃんと言ってくれれば最初から2元払ったのに。これからは正直に商売してほしい」と言ってもらった。おばさんは、人の話を聞きもせず、カネを掴み取るとさっさと立ち去っていった。
午後、あきえさんの授業に参加。自分の半生を学生に易しい日本語で話す。けっこう受けていたようでほっとする。楽しかった。
夕方、学校から少し離れた市場の屋台で、あきえさんとカンカンと夕飯を食べる。久しぶりの中国のビールはうまかった。(安いしね。1本=4元(60円))
2008年5月31日(土)
あきえさんが、審査員をつとめる江西省の日本語スピーチ・コンテストに出席。参加する学生の9割は女子という印象である。真剣そのものの表情で、学生たちがスピーチをしていた。テーマは、桜であった。中国の学生たちは素直で素朴という印象である。日本でいうと、中高生みたいである。
昼前に抜け出して、カンカンと市内観光に出かける。遊2線というバスは超満員だった。それを30分くらい乗ると、美しい湖畔に出た。バスの路線が変わってしまったらしく、終点から、車が忙しく走る国道をしばらく歩く。カンカンは「昔の村」に行きたかったらしいが、道がわからない。行きかう人々に道をきくと、みんなてんでバラバラの答えでおもしろかった。
昼食は、街の定食屋でワンタンと炒粉(炒めビーフン)を食べる。南昌の炒粉は実においしい。
ようやく目的の「昔の村」にたどりついた。しかし、正確にいうと「昔の村」はすべてつぶされて、新しく美しい公園になっていた。カンカンは、以前のほうがよかったと言った。彼女が最後にきたのは1年前で、わずか1年ですべてが変わってしまったのだ。記念写真を何枚か撮って、スピーチ・コンテストの会場に戻った。
会場では、スピーチ・コンテストはすでに終わり、午後は「文化祭」がおこなわれていた。日本に関係する寸劇や歌などが延々とつづいた。「らき☆すた」のアフレコがあったのはやばかった。見ていて恥ずかしくて汗が出た。江西省の正式なイベントなのに、会場は実に雑然としている。雑談はもちろんのこと、携帯電話で話すもの、居眠りをするもの。そして、自分の大学の出し物が終わると、応援団もろともさっさと帰ってしまう。なので、夕方遅くには、会場には空席が目立つようになった。出し物も審査員によって評価がつけられていて、その数字が発表されるたびに、会場からは歓声とため息がもれる。いかにも中国的な光景であった。
夜は市内に出る時間がなかったので、学校の食堂で火鍋をあきえさんとカンカンと食べた。ビールがうまかった。あきえさんの審査員の仕事は大変だったので、その慰労会をかねていた。カンカンが注文してくれたが、店員の態度が悪いと肩をすくめていた。店のそこには、大小2匹のネズミが仲良く走り回っていた。楽しい夜だった。店の横柄な老板(店主)が「もう店じまいだよ!」と怒鳴って、宴はおひらきになった。
2008年6月1日(日)
今朝ついに、南昌を離れる日である。朝から腸の調子が悪い。中国恒例のやつだ。旅館をチェックアウトして、最初に乗ったバスは、僕が人生でもっとも混んでいたバスだった。それに自分の体とスーツケースを押し混んだ。一つ先のバス停で降りると、カンカンとあきえさんが待ってくれていた。3人で、南昌駅行きのバスに乗り込んだ。外は、小雨が降っていた。少し、暗い感じのする朝だった。3人は少し離れた場所に座ったので、互いに交わす言葉もなかった。駅についたが、あきえさんは駅員に制止されて、プラットホームまで来られず、カンカンだけが、外国人の付き添いという名目で、ホームまで来てくれた。記念撮影をし、握手をして別れた。ちょっと感傷的な気分だった。
乗り込んだ列車は、たしかにあきえさんの言うとおり、新幹線のような新型列車であった。上海まで5時間。最高速度は、たしかに車内の電光掲示板によると、202 km と表示されていた。携帯にカンカンからの SMS が届いていた。「一路順風」と書いてあった。カンカンよ、ありがとう。君が親身に案内をしてくれたおかげで、南昌の滞在はとても充実したものになったよ。
上海到着。上海はおそらくは4年前より発展しているのだろうけど、それほどは印象は変わらない。地下鉄路線はますます増えたようだ。心なしか人々の服装がより垢抜けて、やや優しくなったような気もするが、誤差の範囲か。
久しぶりの上海駅前は、相変わらず人が多かったが、荷物担ぎの人たちは減っていた。しかし、今日は日曜日なので、そのせいかもしれない。東方明珠塔という上海を象徴するタワーのてっぺんまで、登ってみる。上海の夜景がきれいであった。そのあと観光トンネルを潜って、川を渡る。この観光トンネル、ゴンドラみたいな乗り物で移動するのだが、暗闇のなかで幻想的な光のショーが移動しながら見られる。ディズニーランドのような趣向である。ゴンドラには、私と中国人のカップルの3人だけ。カップルは約5分の移動中、暗闇の中でずっと抱き合っていた。
その後、南京東路をブラブラしてみた。ここは、東京で言えば銀座みたいな目抜き通りである。地元民も来るが、観光客もすこぶる多い。私は、ここを歩いた約1時間の間に、20人以上の客引きに声をかけられた。たいていは、あやしげな性的サービスへのお誘いである。若い女性の客引きがいたのには、ちょっと驚いた。おそるべし、中国人。本当にエネルギーの塊のような人々である。客引きを軽くいなしながら、宿に戻った。
2008年6月2日(月)
朝 5:30 に起きて、上海国際ユースホステルをチェックアウト。出てすぐのところの屋台がお好み焼きのようなものを売っていてうまかった。2元。南京東路から地下鉄2号線に乗り、終点の Song 紅路で降りる。4元。そこからタクシーで10分。これが20元。中国のタクシーということで心配したが、ボラれることもなく、ちゃんとメーターで走ってくれた。(おつりの1元は、チップとしてくれてやったが) もやは掛かっているが、晴れて気持ちのよい朝だ。しかし、このもやの正体は何だろう。スモッグだろうか?4年前に上海に来たときも同じもやが掛かっていた。上海紅橋空港は早朝の便に乗る客でごった返していた。年季の入った古い空港だが、拡張計画はあるようだ。飛行機は定刻どおり8:20に出発した。
飛行機は順調に飛行し、10:10に空港に到着した。おもったより早かったなと思いつつ、タラップを降り立つと何か様子が違う。空港が小さい。ターミナルの建物に目を向けると、「金安」の文字が。一瞬、自分が乗る飛行機を間違えたのかと思った。空港スタッフをつかまえてたずねるに、「乗換えだ」という。それで少し安心したが、結局、降りた飛行機に30分後に再び乗り込んで出発した。いったい何のために降り立ったのやら。給油のため?ボーイング社の中型機で、1000キロ以上は飛べる飛行機のはずなんだがなあ。「金安」は江西省の地方都市で、空港は小奇麗だったが、小さな売店がひとつあるきりで、他には何もなかった。のんびりした中国の田舎という感じがした。
飛行機は再び飛び立った。そして1時間後、こんどこそ深セン空港に降り立った。A330バスに乗って、深セン駅へ。ここから歩いて香港に入境する。中国よ、さらば!君はこの4年間よく頑張ったと思う。すごく発展していたね。これから、更に発展していくにちがいないという確信を持った。また何年後か成長した姿で会おう。
羅湖駅から鉄道で九龍タンへ。途中、通路を挟んで反対側の座席に並んで座ったおばさん2人が、それぞれ別々に広東語でけたたましく携帯電話で会話をしていて閉口した。とにかく30分間しゃべりにしゃべりまくっているのである。香港の人は、だいぶマナーがよくなったとおもったのになあ。おばさんのマナーが悪いのは万国共通か。
九龍タンに地下鉄に乗り換え、モンコックでさらに、セントラル行きの地下鉄に乗り換える。ジョーダンで降りて、ラッキーゲストハウスを探すが、どこにあるか分からない。たしか上海街だったはずだが。結局、ノートパソコンを取り出して、住所を確認する羽目に。やれやれ。狭い路地の交差点でパソコンを確認すると、突っ込んできたトラックに内輪差ゆえにひかれそうになる。
香港は、蒸し風呂のように暑い。湿度はほぼ100%。気温は30度程度。肌に粘りつくような熱帯の空気だ。
ようやくラッキーゲストハウスにたどり着くと、部屋の中には誰もいない。めずらしく内側の扉が閉じている。もういちど外にでて、今度はチャイムを鳴らすと、トイレのなかからオーナーのおじさんの首が覗いた。「いま煙で殺虫をしているんだよ」とおじさん。15分後に来いという。仕方ないので、ゲストハウスの下の食堂でチャーシュー飯を食べる。このチャーシューとろけるうまさである。それでたったの HK$20。安い。
ラッキーにチェックインするとすぐに飛び出した。一路マカオに向かう。地下鉄をジョーダンから乗り、セントラルへ。さらに乗り換えて上環へ。ここから TurboJet という高速船に乗るのだ。
当たり前だが、空港にあるようなごく普通の出国審査を受け、香港を出境。ターボジェットに乗り込むと疲れが極度に達し、直ぐに眠り込んでしまった。
気が付くと、すでに窓の外にはマカオのビルが映っている。第一印象は、当たり前かもしれないが建物の感じは香港と変わらないな、というものだった。マカオの入境検査を通り、フェリーターミナルの観光案内所で、バスルートやカジノの情報を尋ねる。The Venetican というホテルがマカオ最大のカジノを経営しているらしい。まずは、市中心部のセナド広場へ公共バスで向かう。外は重い雲が立ち込め、雨が降り始めていた。夕方のラッシュアワーで、地元民が次々と乗り込んでいる。街の標識は、中国語とポルトガル語、そして時々英語も併せて書かれている。ポルトガル人と中国人の混血なのか、よく南米でみるような顔立ちの人々をよく見かけた。
セナド広場はなかなか美しかった。その近くの坂はなぜか渋谷のスペイン坂のような印象を受けた。ハーゲンダッツの店でアイスクリームを食べる。不思議に元気が出てきた。
フェリーターミナルに戻り、今度は The Venetican への無料送迎バスに乗り込む。高級なバスでシートはふわふわである。橋を渡って、向こう側の島へ。マカオの夜景がじつに美しい。10分ほど走って要塞のような巨大な建物が視界の中で大きくなってきた。それが The Venetican だった。目の錯覚かと思うほど大きいのである。ロビーに入ると、その豪華さに衝撃を受けた。そこから内側に200メートルほど歩くと、カジノの入り口だった。そして、カジノに足を踏み入れた後、私は信じられない光景を目の当たりにした。とにかく大きいのである。そのカジノの部屋の大きさと行ったら、誇張でなく部屋の端がかすんで見えるほどなのだ。少なくとも300メートルは先であろう。比類すべきは、ホテルの会議室などではなく、空港の出発コンコースとか、ドーム球場とか、国際展示場とか、そういう類の施設である。とにかく度肝を抜かれた。そして部屋は大きいだけでなく、超豪華でもあった。バカラのテーブルや、スロットマシーンがところ狭しとおかれている。バカラのテーブルの上では、500香港ドル札が大量に行きかっていた。
私は、スロットで少し遊んだあと、バーでウィスキーの水割りを飲んだ。バーの店員たちは、流暢な英語を話した。カジノの客は大半は香港人か、大陸から来た中国人であったようだが、バーの客は大半は西洋人であった。隣にすわった金髪の30がらみの男に声をかけると、ウクライナ人であるという。彼は、ウクライナのカジノでマネジャーをやっているらしい。視察で来たのだ。彼いわく、このカジノはラスベガスのものより大きいという。ちょっと信じられないが4000のテーブルがあるという。4000!
カジノを出て、フェリーターミナルに戻り、再びターボジェットに乗って香港に戻った。地下鉄で帰るのはつまらなかったので、トラム(路面電車)に乗ってみる。乗り込んで、隣に座ったおばちゃんに英語と北京語で、セントラルに行くかと聞いてみたが、「反対だ」という風に後ろの方を指差した。トラムをいったん降りて、反対方向のトラムに乗り換えてみた。今度は、セントラルにきちんとついた。そこからスターフェリーに乗り、九龍側に出る。2階建てバスの2階に陣取り、ジョーダン駅まで帰る。
ラッキーへの帰り際、屋台風の店で、シンガポールヌードルを食べる。ビールと併せて HK$ 60。かなり高い。見ると、店員はきちんとした英語を話すし、中国人らしからず愛想はいいわで、観光客相手のありがちな高い食堂だった。まあいいわ。僕も、実際観光客だし。
ラッキーハウスに戻ると、シャワーを浴びて寝た。この日は、地下鉄・タクシー・飛行機・バス・電車・船と交通機関のグランドスラムを達成。心は高揚し、身体は心地よく疲れていた。夢のない良い眠りについた。
2008年6月3日(火)
Lucky Guest House で朝7時に目が覚める。さっそく近所の屋台で朝粥を食べる。その後、ラッキーのおじさんと宿泊客たちで、同じ屋台にもう一度行き、飲茶をする。腹いっぱい食べて一人30元。安い。宿泊客の中には、会社をやめて、世界旅行をしようとしている青年がいた。中国を皮切りに、ベトナム・ラオス・タイ・インド・トルコ・エジプト・・という具合に、アフリカを最南端の喜望峰まで行き、さらに南アメリカに飛んで、最後はアメリカ・カリフォルニアまで行こうというのである。真面目で賢そうな若者であったので、意志さえ続けば、きっと世界一周できるよ。それにしてもラッキーハウス、なんともこきたないが、これほど居心地のよい安宿も珍しい。オーナーのおじさんは今年70歳だという話である。長生きしてほしいものだ。そして帰国。
実に愉快な旅行であった!!!