韓国への複雑な思い

私は、韓国が好きだ。しかし、なぜ好きなのか説明するのは難しい。そこにはあまりに多くの感情が入りこんでいるからだ。

私が、初めて韓国にかかわりを持ったのは、大学3年生のとき、ある官製の学生交流企画で、日本側の学生団の一員として韓国を訪れたときだ。しかし、そのときは、韓国側のあまりに大仰な歓迎振りに私はむしろ戸惑いを感じ、あまりいい印象は持たなかった。

その後も、いまのネット右翼たちがそうであるように、韓国政府のあまりに偏狭な歴史認識や日本政府への態度に腹を立て、決して韓国に好意をもってはいなかった。

韓国人と本格的に付き合うようになったのは、10年前、カナダ・トロントへ渡ったときからだ。そこには韓国人留学生が大勢いて、お互い英語に苦手意識をもっていたから、すぐに仲良くなった。彼らに、現地の韓国人街の韓国料理に連れていってもらい、韓国料理のすばらしさに目覚めてしまった。

カナダは、日本文化とほとんど何の共通点もない異郷である。その中で、相対的に見れば、日本人と韓国人はほとんど同じと言っていいほど文化的に近い存在だった。それゆえ、私はカナダ時代、日本人と韓国人をわけ隔てることなく付き合っていた。私は、本当に韓国料理がすきで、日本料理よりはるかに頻繁に韓国料理を食べていた。韓国料理の定食屋に通いつめて、店主のおばちゃんと仲良くなり、料理をおまけしてもらったこともあった。ある意味、カナダ時代の自分にとって、韓国人は私の心の支えであったのだ。

韓国好きが高じて、とうとう私は韓国に留学して韓国語を学ぶまでになった。5年前、日本に韓流ブームが到来する直前のことだ。ソウルの韓国料理屋で韓国焼酎(ソジュ)を飲みながら、韓国人や日本人の同級生と語らうのは本当に楽しかった。このころが私の韓国のかかわりがもっとも深くなったころだ。

韓国には半年滞在して、韓国語を完全にマスターするには至らなかったが、非常にいいところまで行った。あと半年韓国に滞在していれば、一生忘れないだけの韓国語を覚えていただろう。そう思うと残念だ。

日本に帰ってきて、韓国人と交流しようと思った。しかし、何かが違うのである。カナダでは私は日本人と韓国人の区別なく付き合っていた。似たような顔をして、ともに下手な英語で話していると、ほとんど違いを感じずにすんだ。しかし、日本で韓国人と付き合おうとすれば、両者の違いばかりに目が行ってしまう。まして、日本での韓国人の地位は、在日問題などもあり、なかなか微妙なものがある。居心地の悪さをぬぐうことができず、韓国人との付き合いから足が遠のいてしまった。

今回、韓国に来たのは、こうした様々な感情に整理をつけたかったからだ。

何度来ても思うのは、日本にこんなに似ている国はこの世に韓国しかない、ということだ。いま KTX の中で車窓の風景を見ながら、この文章を書いているが、農村風景は、日本のそれと瓜二つである。わずかに違うのは、禿山が比較的多いということだけだ。こんな文化的に近い隣人と仲たがいするのは、あまりにもったいない。歴史やら何やら、日本と韓国の間には難しい問題があるけれども、本当に仲良くするべきだと思う。互いから虚心に学びあうことによって。