浸透するアメリカ文化が作る新日本人

池田信夫 blog の周辺には、経済的自由主義を信奉する人たちが集結している。私も、そういう人間の一人である。このグループの属する人たちは互いに似たような考え方をしており、それはアメリカ文化にきわめて高い親和性を示している。このグループに属する人たちの多くは英語を理解し、自由・独立・民主主義といったアメリカ的価値観に真っ向から反対する人たちはほとんどいない。

しかし、これはある意味で、当たり前のことなのだ。経済的自由主義の思想的骨格である近代経済学自体が、アメリカで発達した学問であり、アメリカ文化の刻印を色濃く受けているからだ。

私は、東大経済学部で近代経済学を学んだ。教授たちはほぼ例外なくアメリカで博士号を取得した人たちだった。彼らの考え方が極めてアメリカ的であるのは当然のことだろう。私は、彼らの考え方をごく自然に吸収したが、それが可能だったのは、母の影響かもしれない。母は、アメリカ人が設立した私立のミッションスクールで中学・高校の6年間を過ごした。母がそこで培った価値観は、確実に幼い私の心に深い影響を残した。私自身は、クリスチャンではないが、賛美歌を歌って育った母の影響で、プロテスタントキリスト教に対しては、かすかな親しみの念を持っている。

私は、自分の価値観に対して誇りを持っている。そのいくつかは多分にアメリカ的であるとしても。

しかし、アメリカとはいままで何のかかわりも持っていなかった「純日本的な」人たちが、私や私に近い考えを持つ経済的自由主義者たちを見たらどう思うだろうか?「アメリカかぶれの裏切り者」という風に見えるかもしれない。いま「小泉改革は日本をダメにした」という言説がネットを駆け巡っているが、こうした「反構造改革主義者」の多くは、構造改革主義者の中にアメリカ文化の浸透を見て、それを日本文化に対する脅威のように感じているのかもしれない。梅田望夫を「鼻持ちならないエリート主義者」とこき下ろす勢力の中にもこうした「純日本人」たちが多数紛れ込んでいるように思える。

そうすると、これは一種の文化的対立なのかもしれない。あるいは、「アメリカ文化の影響を深く受けた人々」がある種の「新日本人」として別のエスニックグループを形成しつつあるのかもしれない。

そう考えなければ説明がつかないくらいに、「構造改革主義者」と「反構造改革主義者」の対話は不毛な平行線を辿っている。話がまったくかみ合わないのである。何か極めて基本的な部分で価値観が異なるとしか考えられない。これは、世界を覆うグローバル化(≒アメリカ化)の日本における一局面なのかもしれない。