「日本の特異性」は世界に売れない

日本のアニメは、きわめてユニークで世界最高だ、と日本人は誇りたがる。だが、実際には、DVDの売上が 日本以外では最大の市場の北米でわずか3億ドル程度にすぎない米国映画は、日本の映画館での売上だけで、約800億円ほどもある(単純化のため洋画=米国映画と仮定)。全世界での売上はその数倍になろう。

オタクの視点から見れば、世界中で日本のアニメが受け入れられていることになろうが、どの国でもオタクたちは肩身のやや狭いマイノリティたちである。一方で、ハリウッド映画は勢いに陰りはやや見えるものの、文字通り世界中の人々に愛されるメインストリームの娯楽になっている。

日本の工業製品についても似たようなことがいえる。日本独自の携帯電話(通称:ガラパゴス携帯(ガラケー))は、非常にユニークであり性能も優れているが、日本の国外ではまったく売れていない。一方、米国企業が設計し中国で生産する iPhone は日本を含む世界中で、5000万台以上売れている

最近の日本のアニメや携帯電話等の日本ブランドの工業製品に感じるのは、「洗練」「複雑」「脆さ」だ。洗練されてはいるが、複雑すぎて、使用環境の変化に脆い。日本の環境には最適化されているが、生活環境の異なる外国では現実的ではない特徴がテンコ盛りである。

一方で世界で売れている製品の特徴は、「大味」「単純」「頑強」ではないだろうか。そして安いこと。ドラマは筋が単純でわかりやすく楽しいほどよい。工業製品も機能が単純でわかりやすく安いほうが売れる。

今の日本人はそういう単純でわかりやすくて廉価な商品が作れなくなってしまっている。しかし、それが商売の原点ではないのか。「日本のユニークさ」を世界に売り込もうというのは、正攻法で市場競争力を失ってしまった負け犬の逃げ口上ではないのか。

かつての日本はそうではなかったはずだ。トヨタのカローラは世界で、3000万台以上売れたカローラが売れたのは「日本の特異性」ゆえではなかったはずだ。性能がよく価格が安いという普遍的な性質を備えていたからこそ、異なる文化をもつ世界中の人々に受け入れられたのだ。

日本人はもう一度、チョンマゲを切り刀を捨てた明治人を見習うべきだ。いままで日本的な何かが、日本の経済を繁栄させてきたのかもしれない。だが、日本的特異性が日本を利する時代は過去のものになった。明治人が勇敢にも自ら封建制度を捨てて、欧米的な社会制度を志向したように、現代の我々も勇気をもって前に進むべきだ。日本社会にたまったさまざまな淀みを一掃し、凝り固まった既得権益を流動化する必要がある。

もっと具体的にいえば、当面、日本はよく似た社会を持つ韓国のモノマネをすればいいと思う。韓国人の若者たちのように世界中の大学で学び、世界を動かしているルールを体感する。企業は駐在員に現地語の習得を義務化し、現地市場を深く学ばせる。規制緩和を断行し、一部地域は経済特区として、大胆な改革を実施する。

また、都市国家ではあるが、シンガポールや香港の透明な行政から学ぶ部分も大きい。

明治人が欧米のモノマネをしたように、平成人は発展著しいアジアのモノマネをすればいいのだ。マネは学びの第一歩だ。それを恥じることはない。もしアジアに対してわだかまりがあるのなら、さっさと捨てるべきだ。過去の栄光とプライドにこだわっている時間的・経済的余裕は日本にはもうないはずだ。

「アジアと日本は違う。日本では人件費やインフラコストも高い」と文句をいう人もいるだろう。ならば、人件費もインフラコストも下げるしかあるまい。この世に魔法はないのだ。旧態依然たる政治が、行政の効率化や規制緩和の障害であるなら、抜本的改革が可能な政府を国民自ら作り出すしかない。日本人よ、もういちど正々堂々、正攻法で世界市場を相手に勝負しようではないか。