金持ちは徳のある人だ

他のすべての人たちと同様に、私もカネを稼ぐ必要がある。公務員になるつもりがない以上、他者から強制的にカネを吐き出させることはできない。何らかの価値を提供し、その対価として顧客からカネをいただくしかない。

私がフリーランスの技術者として働くときには、カネの心配は顧客がしてくれる。マーケターとしての顧客は、広く薄くカネを稼ぐ方法を考え、システムの仕様を決める。私は、技術的なアドバイスはするけれども、基本的に顧客がいうとおりにシステムを作るだけだ。私は提供した役務の対価として報酬をいただく。

ただ実際のところ顧客が求めているのはシステムではない。システムの向こう側にある(と顧客が信じるところの)売上なのだ。「顧客が求めているのはドリルではなく、穴だ」というわけだ。

職業技術者としての私の最大の欠点は、そのとき顧客が目指すビジネスモデルにほとんど興味が持てなかったことだ。むしろしばしば軽蔑すらした。欲望というのはもともと泥臭いものである。自分が持つものとまったく異質の他者の欲望を満たすのにウンザリするのもまた人情かもしれない。だが、そもそも有償の仕事の本質はそこにあるのだ。「他者の欲望はこうであるべきだ」と規定するのは虚しい。所詮、他者の欲望のあり方など、私にはコントロールしようがないからだ。規範的なアプローチは機能しない。他者の欲望を所与のものとして、それをいかに満たすか考えた方がいい。

他者の欲望のあり方を批判することは、本気で天気に腹を立てるのと同じくらい、無意味で馬鹿馬鹿しい行為といえる。雨が降ってきたとき、天を罵っても雨は止まない。雨に濡れずに外を歩くためには、傘をさすしかないのだ。

仕事で突破口を見いだすには、まずこの大前提について納得する必要がある。仕事とは他者の欲望を満たすことだ。自分の欲望を満たすことではない。そして、他者の欲望は所与のものであり、法律に違反しないかぎり、そこに規範的な判断を差し挟むべきではない。

カネを稼ぐ人たちというのはつまるところ、他者の欲望に対して優しい人たちなのだ。欲望は、人格の本質的要素であることを考えると、要するに、カネを稼ぐ人たちは、多くの人たちの人格を受け容れる広い度量を持った人なのであり、その報酬としてカネを得るに至ったのだ。中国では金持ちを徳のある人として尊敬する習慣があるというが、それはみかけほど馬鹿げた話ではないのかもしれない。