分断された日本のインターネット
先日「ソーシャルゲームはなぜハマるのか」の書評を書いたが、実は言及できなかったポイントがある。
ソーシャルゲームはなぜハマるのか ゲーミフィケーションが変える顧客満足
- 作者: 深田浩嗣
- 出版社/メーカー: SBクリエイティブ
- 発売日: 2011/09/10
- メディア: 単行本
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他国では、インターネットはごく最近まで「情報強者」だけのものだった(スマートフォンの浸透により今まさに大衆層が使いはじめているところだ)。
一方で、日本では1999年ころからフィーチャーフォン(ガラケー)が独自にインターネット接続を始める。これはやや奇形的ではあったが、大衆のニーズに合致していた。一方で情報強者層は、ガラケーの制限の多いネット接続に飽き足らずおもに PC を 使ってネット接続していた。
日本では10年以上、相交わることのない2種類のネットユーザーがいたのだ。ガラケーを使う大衆と、PC を使う情報強者だ。私は、当然後者に属していた。そして後者からは、ガラケー文化がどうしようもなく低俗に見えたのは否定しがたい。
日本では階級の断絶がことさらに意識されることは少ないが、この2つのネットの文化の断絶はそれに近かった。
そして、これは公然の秘密といえるだろうが、最近勃興しつつあるソーシャルゲームは、まさに前者のガラケー=大衆向けの文化なのだ。そして、これは従来 PC からネット接続していた情報強者たちと完全に断絶している。
それが証拠に、私が先日、ソーシャルゲームの実態に疑問を投げかけるような書評を書いても、「私はメチャクチャ、ソーシャルゲームにハマっていますが、実際に素晴らしいものです!」などとコメントしてくれた人が誰もいなかった。数千のアクセスを集めても、その中でソーシャルゲームをやり込んだひとはほとんどいないのだ。
日本には相交わることのない2つのインターネットが存在している。PC のインターネットとガラケーのインターネットだ。それがいま、スマートフォンという媒介を経て互いの存在に気づこうとしている。だが、この2つが完全に融合するかといえば疑問符がつく。
ソーシャルゲームが、いびつな構造を持つとすれば、消費者は「大衆」なのに、生産者は「情報強者」という点だ。ここでは、自ずから、消費者と生産者は非対称な形を取らざるを得ない。これは、いまや滅びつつあるマスコミと同じ形だ。ある意味、ソーシャルゲーム陣営こそ、マスコミの正当な後継者なのかもしれない。
インターネットは、研究者たちの情報交換の仕組みとして発展した歴史持つ。参加者は本質的に自由で対等だった。ネットはいまだ色濃くその面影を残しているが、ソーシャルゲームはこの点、全く異質である。これが伝統的なネットユーザーから異端視される一因だろう。
だが、インターネットが研究者の専有物であった時代は遠い過去になった。インターネットが大衆化するのは必然であり、たまたま日本でそれが最初に起こったというガラケー関係者の指摘は間違っていない。ネットが大衆化したあかつきに何が起こるかは考えておく必要があるだろう。
結局のところ、起こるであろうことは、現実世界とあまり変わらないだろう。つまり、人々はネットの世界でも自分たちの所属する「階級」に応じて分離して居住する(segregate)するのだ。ちょうど、米国で人々が所得や文化に合わせて別々のエリアに住む姿を想像すればいい。
そして米国がそうであるように、わずか1ブロックしか離れていない場所であっても、異質な人々が住むエリアならば足を踏み入れないのだ。これがいままでのインターネットの世界だったし、これからもそうだろう。
この2週間ほどガラケーを使い込んでみたけれども、正直アウェイ感は拭えなかった。いちいち何をするにもつらい。何がつらいのかというと、ネットはすでに梅田望夫風の理想主義的な世界ではなく、おおぜいの「普通」の人たちにいたって下世話に(だが有用に)使われているという現実があるからだろう。
私は、ネットを通じて、世界中のもっとも優れた人たちと交流し自分を磨きたい。そのためには、たぶん Mac と iPhone だけを使って、限られたサービスの中で生息するのがいちばん居心地がいいだろう。ただ、そうではない広大な世界があることだけは忘れてはいけないと思う。
いまのテレビマンは、大衆向けに自分が制作した番組を見ているのだろうか?いまのソーシャルゲームの作り手は、大衆向けに自分が制作したゲームで遊んでいるのだろうか…?
"Eat your own dog food" のテスト(自分で作ったものを自分は欲しいか?)は、ほとんどの職業人がパスできないだろう。だから、私はテレビマンもソーシャルゲームの作り手も非難するつもりはない。ただ、一抹の寂しさを感じるだけである。
ウェブが大衆化し基本的に彼らの持ち物になるということが「私たちの知っているウェブの終わり」なのかもしれない。