もし世界が人口10人の村だったら - 図解・評価経済論

世界人口は現在70億人。これを人口10人の村にたとえるのは、やや無理があると感じる人もいるかもしれない。そういう人はこの「世界村」の1人は、実際の7億人分だと考えてもいい。その「世界村」で、モノの生産力が上がり、それに従事する人々が減ったら、村の経済はどう変わるのか?

モノの生産に携わる必要のに必要な人数が減るというのは、携わりたくても携われない人たちが増えるということだ。この人たちは、もういままでの意味での「労働」をする必要がない。「ヒマ」なのだ。では、一体何をしたらいいのだろうか?

私は、このエントリーで以下のことを説明したい。

  • モノ作りがより少数の人々に担われるようになっていくこと
  • 技術進歩により、一人当たりの生産価値も消費価値も上昇していくこと
  • 経済に占めるサービスの価値がモノの価値より圧倒的に大きくなっていくこと
  • サービスの多くがカネを媒介にせず、直接交換されるため、GDP 成長には寄与しないこと。
  • だがそれは経済成長がないことを意味していないこと。

図をふんだんに使ってわかりやすく説明を試みるのでぜひ最後まで読んでみてほしい。

技術進化・経済のサービス化・評価経済

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経済で生産されるものをモノとサービスの2つに大きく分ける(これは私が「カネを媒介としない新しい経済ー21世紀の評価経済論で述べた分類法とはやや異なっている。ここでのサービスは、無料の情報生産も含んでいると理解してほしい)1個のブロックは一単位の経済価値を意味している。赤はモノ、緑はサービスを意味する。

以下すべて単位時間あたり(例えば1年)の生産・消費額について考える。

前提として、生きていく上でモノは一人につき1単位の消費が必要としよう。逆にモノが2単位以上あっても、消費の喜びはたいして増えないので、ふつう1単位あれば十分だと考える。

サービスも一人につき最低1単位の消費は必要だと考えよう。だがモノと違って、消費するだけ喜びが増えると考える。つまりサービスの消費に上限はない。

また、自家消費することはなくて、生産物は必ず誰か他の人の生産物と交換されるものと考えよう。この交換にはカネが媒介するときもあれば、媒介しないときもある。ただし、生活必需品(モノ1単位・サービス1単位)は、必ずカネを媒介にして交換されると考える。

まず20世紀の経済を描写する。

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人口10人の世界村では5人がモノの生産、5人がサービスの生産に従事していた。モノの生産でもサービスの生産でも一人が2単位生産するのが精一杯だった。経済全体の生産量は20単位にすぎなかった。

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生産の後にカネを媒介とした交換が起こる(要はモノやサービスが売買されるということだ)。全ての人が、自分の生産物のすべてを交換して、モノ1単位とサービス1単位を得る。

時代は下り、21世紀の経済へ。

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技術革新によって、村人10人全員にとって必要なモノ(10単位)はたった一人で作れるようになった。残り9人はモノの生産に携わる必要がもはやない(携わりたくてもジャマなだけで携わることもできない)。

一方で、情報技術等の進歩により、一人当たり10単位のサービス生産が行えるようになった。

つまりモノ10単位、サービス90単位の合計100単位が生産されるようになった。20世紀の20単位に比べると実に5倍に増えている。これは技術進歩のおかげである。

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生産の後にカネを媒介とした交換が起こる。20世紀同様に、全ての人が、自分の生産物のすべてを交換して、生活必需品であるモノ1単位とサービス1単位を得る(上図 ① と ② の交換)。つまりカネを媒介にして交換される分は、20世紀と比べてわずかに増えて28単位である。

経済全体の生産量は100単位であった。だがカネを媒介にして交換され消費される分は、わずかに28単位であった。残り72単位はどうなったのか?これらはカネを媒介にされずに直接交換されるサービスである(上の図 ③が示す青いブロック群)。

GDP 統計に現れるのは、カネを媒介にして交換される部分にすぎない。

つまり

  • 20世紀 - 20単位
  • 21世紀 - 28単位

だ。

これが貨幣経済の規模を表している。

一方で、21世紀には 72 単位のサービスがカネを媒介とすることなく生産され、消費されている。これこそが評価経済だ。

GDP は 20世紀から21世紀にかけて、28/20 = 1.4、つまりわずか40%しか増えていない。だが、本当の経済規模(=貨幣経済評価経済)は100/20 = 5、つまり5倍に増えている。

素晴らしき未知の未来へ

上ではサービスの中身として、

  • 物理的な人手が掛かる対人サービス(講演やライブコンサート等)
  • 情報発信(ブログ・動画公開等)

をあえて一つのくくりにした。

現実には上の72単位が全部、カネを媒介にせず「サービス・サービス交換」されるとも限らない。一部はカネを媒介とするだろう。それは GDP を押し上げる。

だがそれでも多くのサービスはカネを媒介することなく、互いに交換されていくだろう。それが評価経済の実体だ。カネを媒介としないために、GDP 統計には現れない。だが、それは私たちが貧しくなることを全く意味しない。悪いのは、GDP 統計の技術的限界であり、経済そのものではないのだ。

私たちは、長い間、モノ作りに従事することによって、カネを稼ぎ、生計を立ててきた。モノ作りを全くしない人々が大多数を占める経済というものに慣れていない。サービスが経済の中心を占め、かつその多くがカネを経由しないで直接交換される時代を目前にして、新しい現象を理解できない人たちが閉塞感を感じ、古いモノ=カネの世界に退行・逃避しようと必死になっている。

それはまるで子供が大人の世界に入っていくときに、そのまばゆいばかりの豊かな可能性を前に、一瞬足がすくむ姿によく似ている。スヌーピーが登場するマンガ「ピーナッツ」登場人物の一人ライナスが安全毛布にしがみつこうとするように。

新興国では、いまモノ作りがものすごい勢いで発展しつつある。そこでは、先進国の過去の成功体験が全て活かせる。そこに郷愁を感じる先進国の人々は多い。だが、それはしょせん過去にすぎないのだ。

先進国は、人類最先端の課題に直面しているという意味で、新興国の先を行っている。先進国はやはり先進国なのだ。私たちは勇気をもって、しっかり前を向いて、いまだかつてなかった未来を自ら創造していかねばならない。それはきっと素晴らしいものだ。

P.S.
評価経済論といえば、この本。定番を紹介しておく。

評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている

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公文俊平氏の立場も、評価経済論に深く通じるものがある。

情報社会のいま ―あたらしい智民たちへ

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とりあえず @sayuritamki さんが突撃インタビューした下の録音で公文先生の考え方が良く理解できる。おすすめ。

2012/1/23 第14回 ゲスト 公文俊平先生, MG の部屋