「パブリックな消費」という名の生産

あなたはおカネが好きだろうか?「100万円あげる」と言われて嫌な顔をする人はほとんどいないだろう。私もカネは好きだ。

なぜ私たちはカネが好きなのだろうか?それはカネがあればたいていのものが買えるからだ。自分の欲しいものが何でも手に入る。そのために他者の承認をいちいち得る必要はない。その意味で消費は私的なもののはずだ。

だが実は純粋に私的な消費なんて本当にあるのだろうか?現代のさまざまな精神病理は、消費が自分一人だけのものという錯覚から生じているのかもしれない。だとしたら、それを乗り越えるためにはどうしたらいいのだろうか?ーという問題意識が私にはある。

工業の時代(アルビン・トフラー風にいえば第2の波の時代)、人々は「カネを稼ぐときはパブリックな存在(生産者)、カネを使うときには私的な存在(消費者)」という全く対照的な2つの役割を演じるのが当然だと考えられてきた。私は、最近、その役割分担について本気で疑念を感じ始めている。

いままで私たちはあまりにカネを稼ぐことに集中しすぎてきたのではないか。カネを稼ぐのは究極的には使うためではなかったか。人生を充実させる上で、実際に重要なのはカネを使う部分だ。この部分に人々は無関心すぎる気がする。

消費は私的なもので、自分の自由になるのだから、難しく考える必要はないという社会通念があったのかもしれない。実際には、モノやサービスがあふれかえり、カネの使途は事実上無限にある。自分の人生に本当に資する形で、カネを有益に使うのは想像するよりずっと難しい。

完全に私的な消費はあり得るのだろうか?コンビニでパンを買って自分の部屋で密かに食べれば、これはほぼ完全に私的な消費かもしれない。だが車や家を買うことはどうだろうか?車や家は、家族で共有されるだろう。自分一人のためというより、家族にも喜んでほしいから買うのではないか?社会的ステータスも意識するだろう。美しい車や立派な家が欲しいのは、世間に対して自分が社会的成功者であることを誇示したいためでもある。その消費には想像上の社会一般の人々(世間)が参加している。

豪邸を買ったとしても、一人ぼっちでそこに住み、通行人も近所の人も誰も注目しなければ、虚しいだけではないのか?多くの消費が実は多くの人たちが関係する社会的なものではないのか?

自分の私的なカネは、反社会的なモノの購入に当てられるという「メリット」があると考える人もいるだろう。ある種の麻薬・性サービス・武器など。だが、そういう行為は購入者の人生を真の意味で利するだろうか?ある行為が反社会的と呼ばれるにはそれなりの理由がある。長期的に見て本人のためにも良くないのではなかろうか?

近代は「私的」な時代だった。近代以前には「私」が存在しなかった。人々は大部屋を共有してプライバシーもなかった。封建的な種々の因習にも苦しめられていた。近代は、私有制度を通じて「自分だけのモノ」「自分だけの空間」を人々に許した。個人が法律の許すかぎり気ままに行動する自由を与えた。息苦しい近代以前からの大いなる解放だった。

一人だけの空間である「ワンルーム・マンション」はそんな近代のクライマックスではなかっただろうか。大家族が解体されて、親子だけの核家族になったことも近代の象徴だ。

だが、私たちはいま孤独に苦しんでいる。近代以前は、窒息するほどの多くの人間関係の網の目の下で生きてきたから、孤独は問題にはならなかった。だが、私たちは私有と自由の代償としての孤独を味わっている。近代が行き着くところまで行って、その行き過ぎが私たちを苦しめているのではないだろうか?

人々が孤立していくのはよくよく観察すると私的消費が原因であることが多い。自分たちは気ままに生活したいから一人で暮らす。一人で買い物をする。一人で食事をする。自分の自我だけが肥大化していく。消費のなかで私たちは想像上の王様になり神様になる。

だが、食欲や睡眠欲といった生理的な欲望から一歩離れれば、消費はすべて社会的なものなのだ。かつて男性が高級車を欲しがったのは、女性の関心を惹き付けるためだった。家を買うのは、社会的承認を得つつ、家族にも喜んでほしいからだ。

消費は、もともと大勢の人たちの視線が関わるものであるなら、むしろ積極的に消費をパブリックにすればいいのではないか?

私たちが幸福を引き出していくのは、消費を通じてなのだ。私たちは消費をより真剣に考える必要がある。どういう消費をしたいのか開示して他の人たちの意見を聞くのはどうだろうか?そもそも消費が社会的なものであるなら、社会的価値をもたらす消費について他者の資金援助を仰ぐのもよいのではないか?

冒険家の資金集めが一つの例だ。たとえば世界をヨットで一周する冒険家は、ある意味で消費者にすぎない。だが、その消費は私的ではなく社会的であり、価値があると考える人たちが資金援助者(スポンサー)になる。資金集め(fundraising)型消費だ。冒険家が私財のみに頼るなら、秘密裏にそういう行動を取ってもいい。だが、他者の資金協力を仰ぐため自分の計画を公(パブリック)にすれば、それは「パブリックな消費」になる。

近代において完全に私的だった消費をよりパブリックなものにしていくこと。自分の消費が自己実現に近いものになるほど、社会的になり多くの人たちに関連していく。その消費の社会的価値を立証しつつ資金集めができれば、カネを使うことと稼ぐことは同じことになる。これが未来の「仕事」なのかもしれない。

不思議なのは、自己表現のための消費が、他人をどんどん巻き込んでいくにつれて、社会的意義を持つようになり、それが社会的価値を生む「生産」に転化していくという点だ。つまり消費を突き詰めることによって、それが生産にもなるのだ。「パブリックな消費」という名の生産の誕生である。

「パブリックな消費」の概念は以前も存在したかもしれない。だがインターネット等の情報技術の進歩により、それがいま人類史上初めて持続可能な形で実現できるようになりつつある。

このエントリーはやや抽象的で分かりずらかったかもしれない。私は別に理論家というわけではなくて、自分が実際に行動を取るために必要な分の理論的根拠を考えているにすぎない。実は、自分自身でパブリックな消費を実践する構想を暖めている。結局のところ、私は「パブリック・マン」だから。

P.S.
これらの論点は、

スペンド・シフト ― <希望>をもたらす消費 ―

スペンド・シフト ― <希望>をもたらす消費 ―

の主張に関連しているかもしれない。詳しくは、この本の著者とイケダハヤトさんの対談(1)対談(2)を参照のこと。