名和小太郎「ディジタル著作権」

ディジタル著作権

ディジタル著作権


著作権といえば、反射的に著作権法を想起し、その法解釈に終始するような本を思い浮かべるかもしれない。しかし、名和小太郎「ディジタル著作権」はそうした書籍とは明らかに一線を画す。そもそも著作権とは何なのかという根源的な質問の前に、執拗さを感じるほど、多面的に、つまり歴史・文化・政治・経済・技術のあらゆる切り口から、著作権について語り尽くしているすさまじい本である。

この本の真骨頂は、最終章「二重標準の時代へ」である。名和氏は、著作者を次の3種類に分類してみせる。

(1) 伝統的著作者(標準的著作権
(2) 財産権指向型著作者(強い著作権
(3) 人格権指向型著作者(弱い著作権
(p.243)

(1) は作家や映画会社など伝統的な著作者。(2) はソフトウェア事業者・データベース事業者・ディジタル化に関心を持つレコード会社・放送事業者等、比較的最近になって本格的に著作権がらみのビジネスに乗り出した著作権者である。PC の OS を支配する Microsoft・日本の民法テレビ局・iTunes で音楽のネット配信を試みる Apple などがこのカテゴリに入るだろう。(3) はハッカーや大学の研究者など。他には、アニメのパロディ同人誌を作って配布したり、MAD ムービーを制作して Youtube にアップロードするような連中もここに入るだろう。

名和氏は、この3者の勢力が三つ巴の闘いを見せていくと考える。10年経っても、この三者は並び立っているだろうが、(1) ディジタル著作権に関しては、伝統的著作者は先細りであり、その分 (2) か (3) に流出すると予測する。それは著作権者は、財産権指向型か人格権指向型であり、標準的な著作権は、財産権指向者には弱すぎ、人格権指向型にはわずらわしすぎるからだ。

著作権制度については次のように予測する。

それはアドホック部分最適化の方法を積み上げる方法によって実現してきた。それは規制あるところに事業機会を見つけるユーザーとのイタチゴッコのなかで作られてきた。
(中略)しからばこのスパゲティの縺れをだれが解いているのか。それは法廷である。これを法廷は試行錯誤的に裁いている。米国でも日本でも、同一のテーマに対してべつの下級審が異なる判決を示したり、下級審の判決を上級審が反転したり、さまざまの試みが繰り返されている。
したがって制度の改善は差し当たってはつぎのように動くだろう。まず伝統的な制度については議会が部分最適化の方針でこれを改訂し、ついでそこに引き起こされた混乱に対しては法廷が試行錯誤的に解決する。いっぽう不満分子−財産権指向型著作者と人格権指向型著作者−が事実上の制度を正統的な制度の外側に構築する。
(p.245)

名和氏の著作権に対する深い見識、抑制の効いた文章には感服する。ただ、その公平な筆致にもかかわらず、名和氏の人格権指向型著作者への思い入れは隠しようがない。

人格権指向型著作者は、あるいは仕事の虫であり、あるいは趣味人であり、あるいは革命家である。つまり多様な価値観をもち、かつ不特定多数からなる集団であり、その行動は多領域にわたり流動的である。ただし、かれらはディジタル技術について玄人はだしの力量をもっており、その行動を無視することはできない。くわえて人数が莫大であり、その行動が国境を越える。したがってかれらの活動を追いかけることは難しいし、いわんやそれを支配することなどはできない。(中略)この型の著作者を支援する気分は社会のなかに無視できない程度に拡がっている。
(p.244)

きわめて的確な指摘だ。たとえば Ruby コミュニティなどまさしくこの例に当たる。思い入れなくして、これほどに正確な描写ができるだろうか?名和氏はもともと科学者・技術者であった。学問の世界では、こんにちのオープンソース運動のような無償での知識の共有は当然とする伝統がある。だから著者にとっては自然なことだろう。

結局、本書の主張は、巻末のパラグラフに集約されている。

問題は、私たちが著作物という「情報」を対象にしているのに、「所有権」あるいは「財産権」などという概念に捕らわれていることにあるのかもしれない。
(p.257)

まったくその通りだ。それゆえに著作権への反駁は、きわめてラディカル(根源的=革命的)な形を取らざるをえない。資本主義と私的所有は表裏一体であるが、その私的所有の概念になじまないのが著作物=情報なのである。だから、著作権について、資本主義を所与のものとして、その内側で考察するかぎり、決して答えはでないのである。したがって、資本主義の成立条件について思いをはせたマルクスや同様の問題意識を持つ哲学者の考察にさかのぼって考える必要があるだろう。

近代社会は、複製が困難な物がもっとも経済的に重要な社会であった。しかし、私たちはいま、複製がきわめて容易な情報がもっとも経済的に重要な社会に突入しつつある。そんな情報化社会では、近代社会とはまったく別の道徳観や法制度が必要なのではあるまいか。私たちは、そうした長い(そしておそらくは苦しい)社会的変革の道へ足を踏み入れたのかもしれない。