ジル・ドゥルーズ「記号と事件」

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

池田先生のエントリに刺激されて、つい購入してしまったジル・ドゥルーズ「記号と事件」。「この忙しい最中、悠長に哲学書なんて読んでいられるか」と思いながらも、読み始めるやいなや、グイグイと書籍の世界に引き込まれていった。正直言って、私はこの本の10%も理解していないだろう。私の頭が悪すぎるのか、ドゥルーズの頭が良すぎるのか?まあ、どちらも真実だろう。

1993年に読んだドゥルーズ=ガタリの「アンチ・オイディプス」もそうだったが、難解な哲学書なのにもかかわらず、ウキウキしてくる不思議な本なのだ。「記号と事件」でも十分難しいが、「アンチ・オイディプス」の難解さ・ハチャメチャさは並ではない。しかし、池田先生の言うとおり、「記号と事件」は「アンチ・オイディプス」への理解を助けてくれた。

ぼくたちが言いたいのはこういうことなんだ。フロイトは一方で欲望がリビドーの形態をとることを発見した。つまり生産を行う欲望ということだね。ところが一方で、フロイトはリビドーを疎外しなおして、家族という名の代理=表象(オイディプス)のなかに閉じ込めなければ気がすまない。精神分析にも、マルクスが考えた経済学と似たところがある。アダム・スミスリカードも、富の本質は生産を行う労働にあるということを発見しながら、もう一方ではそれを疎外しなおして私的財産という名の代理=表象に閉じ込めないと気がすまなかったわけだからね。

「フェリックス・ガタリとともに『アンチ・オイディプス』を語る」p.38

「アンチ・オイディプス」では、ドゥルーズ=ガタリは、生命そして人間が持つ根本的な傾向を「欲望する諸機械」と呼んでいる。ここでポイントは、主体というきちっとした機能の塊が最初から存在するのではなくて、欲望する諸機械が「分子状の組成を持つ」(p50) 。小さな分子が相互に離散集合を繰り返しながら、巨大分子に進化していくようなイメージだ。遠くから見ると一つの塊に見える巨大化学工場が、近づくにつれて、煙突・パイプ・原料倉庫・道路・トラック・労働者の相互作用によってかろうじて一つの秩序を作っているにすぎないことがわかるようなものか。あるいは、夕方に飛ぶ小さな虫の群れが作る雲が、近づくにつれてどんどん輪郭がぼやけていき、最後は虫たちの(ランダムに見える)運動にしかみえないようになるようなものか。

ドゥルーズ=ガタリは生産(生命の豊かさ・多様性への肯定)は欲望する諸機械によって直接もたらされると考え、その全面的な作動こそが生命=人類の希望だと考える。しかし、歴史上、欲望する諸機械はその可能性の極限まで作動したことがなかった。欲望する諸機械を憎悪し、それを統制しようという存在(器官なき身体)が現れるからである。

マルクスによれば、器官なき身体は、さまざまな姿をとって現れる。現代に近いもので重要なのは、土地と資本であろう。

体制 器官なき身体
封建主義 土地
資本主義 資本

器官なき身体は、欲望する諸機械を一定のルールで動作させるように強制する。これをコード化と呼ぶ。器官なき身体にコード化された欲望する諸機械が取り巻き、規律正しく動作している姿を「アンチ・オイディプス」でドゥルーズ=ガタリは充実身体と呼んでいたような気がする。つまり土地の充実身体や資本の充実身体というものが存在するわけだ。

おもしろいのは、欲望する機械というものの性質が、本質的にありとあらゆる他の機械を結合して流れを生み出し、新しい可能性を切り開くものであるために、充実身体の上にコード化されながらも、それを非常に苦痛に感じそれから逃れて、ルールから外れた動きをしようとし続ける、ということだ。これを脱コード化という。ドゥルーズ=ガタリは逃走線とも呼んでいる。「逃走線は、欲望とか、欲望の諸機械につながり、欲望に満ちた社会の領域を編成するわけだからね。(p45)」

封建主義の時代から資本主義の時代へ移行するとき、欲望する諸機械の土地からの脱コード化と資本への再コード化という苦痛に満ちた過程があった。人々は封建領主からは解放されたが、あらたに資本に隷属することになった。フランス革命は(あるいは明治維新は)人々の封建領主からの解放というつかの間の自由をもたらしたが、その実、資本というより過酷な支配者を招きいれたわけだ。

ドゥルーズ=ガタリが「アンチ・オイディプス」で追究したのは、この資本の充実身体から脱コード化する欲望する諸機械が、どこにむかうのか、という疑問だ。私は、1993年に「アンチ・オイディプス」を読んだとき、彼らがそんなことに執着する理由がわからなかった。それもそのはずだ。1993年にはまだ、私にもはっきりわかる形で物事が立ち現れていなかった。

池田先生の自由の過剰な世界を読んで、ようやく事の真相に気がついた。(これ一つを見ても自分の頭の悪さがよくわかる)そうなのだ。いま私たちが目撃している BitTorrentYouTubeニコニコ動画を通過する音楽/動画ファイルのおびただしい数の流れこそ、資本の充実身体から脱コード化した欲望する諸機械が生み出す流れそのものなのだ。情報が資本=著作権の軛(くびき)から解き放たれ、自由に流動し始める歴史的な瞬間を目撃しているのだ。かつて封建主義時代に、土地からの収益物が封建領主に物納されるのではなく、都市からやってきた商人によって貨幣=資本で買い付けされていく光景を、同時代の人間たちがなすすべもなくあっけに取られて眺めていたように。

歴史的法則が今回も働くとするならば、脱コード化された諸機械は、新たな器官なき身体の上に再コード化されなければならない。資本の次に来るものは何なのか?土地から脱コード化(脱土地化)のとき、あふれ出たものは貨幣=資本であり、貨幣=資本は市場という自律的な秩序(資本の充実身体)を作り出した。今回、資本から脱コード化(脱資本化)して、あふれ出しているものは、情報である。ということは、情報が自律的な秩序を作り出すのか?「情報の充実身体」?そして、資本の充実身体が土地の充実身体より、はるかに包括的で苛烈な支配を欲望する諸機械に対して行ったように、新たな充実身体は資本の充実身体よりさらに包括的で苛烈な支配を行うだろう。

土地=>資本=>情報という充実身体の変遷は、ドゥルーズの晩年にはフーコー論の中で「君主型」「規律型」「管理型」権力と言い換えられている。(p349)

ここまで来るとやはり、思い出さずにいられないのは Google のことだ。Google検索エンジンが浮き彫りにしたウェブの構造はまさしく「情報の自律的な秩序」ではないのか?essa さんは、「公」というものを制御不能であるけど善なるものとして認識するの中で、Google が人間のありとあらゆる活動を検索=監視可能にすることによって、「私的領域の論理、利害によって動く組織が公的空間を支配する」時代が訪れつつあると述べる。たとえ Google 一企業を罰しても、技術的な構造上、第2、第3の Google が現れるだけで、公的空間の拡大という流れは止めようがない。このことを「制御不能な善である『公』」と表現している。まさしくこの「制御不能な善である『公』」こそ、「情報の充実身体」であり「管理型権力」なのだろう。

資本主義社会において、資本こそが充実身体であり、欲望する諸機械はそれに従属するせよ反発するにせよ、資本を中心に動作する。そこで民族国家は、封建領主よりさらに強大な軍事力・経済力をもっていたとしても、あくまでも資本に従属し奉仕する存在に過ぎず、古きよき封建領主に似せた擬古的な存在である。その重要性は資本に比べて二次的なものにすぎない。この類比が、情報主義社会に適用できるとすれば、欲望する諸機械は、情報を中心に動作し、資本の重要性は情報に比べて二次的なものになる。この結論は、今日起きつつある現実と符合しているように見える。たとえばコンピュータの価格を見てみよう。いまや強力な PC がわずか数万円という安価で入手できる。このペースで技術進歩が進めば、いまの電卓並の価格で手に入れることができるようになる日を遠くないだろう。過去の趨勢が続けば、ネットワークの帯域あたりの価格も大幅に下落することが予想できる。PC と高速ネットワークと安価なデジタルデバイス(カメラやマイクやその他もろもろ)を手にした才能のある個人には、あらゆる創作活動が可能になる。独創的な作品は、社会に途方もない新しい価値を付け加える可能性がある。しかし、ここで希少なのは個人の才能であって、資本ではない。製造業では、付加価値の創造において、常に資本が中心的な役割を果たすのと鮮やかな対比をなす。

かくして「ウェブは資本主義を超える」のである。

こうやって考えてきたことは、あくまでも私個人の妄想であり、ドゥルーズを誤読しているのかもしれない。まあ、それでもいいのだろう。ドゥルーズもこんなふうに言ってくれているのだから。

私たちは『アンチ・オイディプス』にも同じことが当てはまると考えています。問題はこの本が機能するのかどうか、機能するとしたらどんなふうに機能するのか、そして誰のために機能するのかということを知るところにあるからです。本自体が機械になっているわけですからね。『アンチ・オイディプス』を何度も読みなおすのではなく、『アンチ・オイディプス』とは違うことをおこなうべきなのです。(p51)

P.S.
封建主義と対応するのは専制君主機械だ。それにしてもアンチ・オイディプスは難しい。私の文章は間違いだらけなので、適当に流してください。