私はいま何をしているのか

いまでこそ RubyJavascript のプログラムを書いて飯を食う身になっているが、どうしてこんなところに流されてきたのか考えてみると不思議だ。私は約15年前に東大経済学部を卒業し、都市銀行に入った。銀行の保守的な雰囲気の息苦しさに一年も経たずに逃げ出してから、紆余曲折を経て、職業プログラマになった。

プログラマとして飯を食っているのは確かだが、私が骨の髄までプログラマかといえばそうともいえない気がする。私は、興味が発散しやすい性質で、実にいろんなことに手を出していた。公認会計士になろうかと会計学を勉強したり、経済学者になろうと大学院に入りかけたり、英語・韓国語・中国語を現地の学校で学んで、文法は完全にマスターした。本当を言えば、私は寅さんのような風来坊で、世界中を風のように放浪していたいとおもうほうだ。

実際、私の30代前半の5年間は、そうやって海外をふらつきまわっていた。ただ、だんだん放浪すること自体に飽きてきたのだ。新しい国を見つけて、そこに飛び込み、言語や文化を学び、人脈を広げていくという作業に習熟しすぎて、作業全体がルーチン化してきてしまったように感じ始めたのだ。

私は英語に関しては日本人のなかでは上手なほうだろうが、ネイティブスピーカーではないし、英語で仕事をするとかならず一定量のオーバーヘッドが発生する。あるとき、そのオーバーヘッドがもったいないと感じて、日本で日本語をつかって仕事をしたいと考えるようになった。そんなふうにして、海外放浪をやめて、日本に帰ってきて、職を得た。

そしていま。自分が何をすべきか、日々考え続けている。私にとって一番楽な生き方は、物価の安い海外の国で語学でも学びながら、のんびり暮らすことだ。そして、それはかつてやったことがあるし、いまでもすぐに実行に移すことができる。ただ、つまらないのだ。そんな楽な生き方をしても面白みがない。

村上春樹も30代のころ海外に居を構えたが、40代になって日本に帰り、地下鉄サリン事件を取材したノンフィクション作品「アンダーグラウンド」を書いた。彼は40代に入って、生まれ育った日本という社会に一定の責任を感じ始めたからだという。私も40を前にして、そんな気持ちが強くなりはじめている。

日本人たちは、いま見ている夢が永遠に続くと信じて日々をやりすごしている。しかし、まもなく繁栄の夢から覚めるときがやってくる。そのときに、私はこの社会に対して何かしなければならないのではないか。たぶん、私は天下国家を論じる東大卒業生の文化的遺伝子を引き継いでいるのだろう。でも、それは悪いことじゃない。誰かが何らかの形で考えなければならないことだから。