私が文章を書く理由

私の文章についたはてなブックマークのコメントが面白い。ほめてもらうとうれしいが、批判のコメントもじつは結構楽しんでいる。明らかに的外れな批判は笑える。だが、かなり核心を突いた鋭い批判からは、はっとするような新しい視点が得られて面白い。

ときどき、「お前の文章は論理展開がむちゃくちゃだ」と叱られる。まったくもっともな批判で、自分自身、自分が書き上げた文章を見て、うんざりすることがある。しかし、あえてたいして推敲も加えず、ポストしてしまうのは、論理を超えた心の叫びのようなものが届けばいいかな、と思っているからだ。たぶん、私の文章を読めば、細部の論理は破綻していても、こころの奥底で何か伝えたいものがあることがわかってもらえるんじゃないだろうか。

論理が首尾一貫している文章を読みたければ、数学書でも読んでもらえばいい。私が、文章を書くのは、自分が行動を起こすための準備にすぎない。私は、評論家ではないし、評論家になりたくもない。

私は、いまどこにいるのか。自分がどういう人間で、私のとりまく環境は何で、したがって、どのように行動すべきなのか。それが知りたいがゆえに、学び、文章を書いている。それ以上でもそれ以下でもない。

司馬遼太郎歴史小説「峠」に出てくる長岡藩士河井継之助が面白い。彼は陽明学者で、思考と行動を同一化することがもっとも肝要だと考えていた。私は、彼ほど先鋭的にはなれないにしろ、理想はそこに置きたい。想像できることは実現できるはずだ。たしかにいろいろ現実的な制約はあるにしろ、そこへ向かって行動を起こすことはできるはずだ。

経済学者のハイエクは次のように述べている。

「合理的な経済秩序の問題に特有の性格は、われわれが利用しなければならないさまざまな状況についての知識が、集中され統合された形では決して存在しないという点にある。[・・・]したがって社会の経済的な問題は、単に「与えられた」資源をいかに配分するかという問題ではない。それはだれにも全体としては与えられていない知識を[社会全体として]どう利用するかという問題なのである。」

社会の中で、経済活動がもっとも複雑な社会的活動と思われるが、それがバブルや不況という一時的撹乱はあっても、日々驚くべきほどの秩序をもって運営されている。それは市場という「全体としては与えられていない知識を社会全体として利用する仕組み」が存在するからだ。そのことを思うとき、私個人があまり複雑に社会について思いを馳せてもしかたないのかもしれない。それより価格のシグナルに従って、金儲けにいそしむことこそ、私の現場の知識を社会に還元するもっともよい方法なのかもしれない。もちろん、市場の失敗を防ぐ、適切な規制が実施されているという前提の上でだが。

とはいえ、価格という不完全ながらもっとも確からしいシグナルだけに従って生きることができないのも、また生身の人間の特質ではないだろうか。陳腐な結論だが、社会全体について思いを馳せながらも、日々は自分がコントロールを及ぼすことができる仕事を、一つ一つコツコツと積み上げていくしかないのだろう。時にその亀のような遅遅とした歩みに苛立ちながらも、そうやって生きていくしかないように思われる。