大きな空想ではなく、小さな現実の達成を

私は、中学・高校時代、日記をよく書いた。ただし、日記と言っても、「今日誰と会って何をしました」式の普通の日記ではない。自分の内面をひたすら洞察するような文章を書くのである。中学・高校時代は、それを人に見られるのが、死ぬほど恥ずかしかった。だが、あれから長い年月がたち、そうした過敏な自我意識も幸いなことにだいぶ和らいできた。今日は、いまの気持ちを表現した「日記」を公開したい。これは、まったく私の個人的なものなので、あまり面白くもないかもしれないが。

===

何度でも原点に戻る必要がある。
それが自分のいままで生きてきた道を否定するかもしれないが勇気をもって直視しなければならない。

私がつらかった中学・高校時代から学んだことは、「世界がメチャクチャに見えるときは、メチャクチャなのは、世界ではなく、実は自分の精神なのだ」ということだ。つまり、自分の心の混乱が、世界に投影されて見えているだけのことなのだ。だから、他者を責めることは、ここでは無意味である。自分の心の神経症的な構造を正すことから始めなければならない。

名著「強迫パーソナリティ」の一節を思い出す。「強迫パーソナリティの持ち主は、『それが完全になされないのなら、どうしてそもそもなされる必要があろうか』と主張する。これは一見、倫理的な態度に見えるので、人々の称賛を受けることもある。しかし、実際には、すべての現実の行動からの逃避の言い訳にすぎない。・・・強迫パーソナリティの持ち主は、自己の不完全性を認めなければならない。有限な存在にすぎない人間の行動の結果はすべて不完全である。だが、その不完全な行動でさえも、実際に行われれば大きな満足をもたらすことが多い。それは、精神の強迫的な構造を和らげるのに役立つ」手元にこの本はないので、もちろんこれは逐語的な引用ではない。しかし、要旨は合っているはずだ。

偉い人間になるのは難しい。誰でも、ガンジーネルソン・マンデラになれるわけではない。しかし、幸いなことに、幸せになるには、偉い人間になる必要はない。わずかな、しかし空想上ではなく現実の達成は - それが偉人の業績から見てどれほど小さくとも - 大きな精神的満足をもたらす。だから、大きな空想上の達成ではなく、小さな現実の達成を目指そう。それが、あまりに小さく見えて、バカにしたくなったり、嫌気がさしたとしても、決して投げ出さないことだ。

私はいま抑うつ的な気分である。これは、いつでもそうなのだが、現実に近づいているときだからだ。空想上の肥大化した自己ではなく、等身大のあるがままの自分の姿を直視できているからだ。(私は、飽きっぽいのだが、それは、おそらく空想上の肥大化した自己と関係があるだろう)等身大の自分を直視することは、実際に他者や社会に働きかけ、現実の行動を開始するための必要条件である。だから、この抑うつ的な状態は、むしろ問題の解決に近づいていることを意味する。だから、この抑うつ的状態は、(森田療法的な意味で)「あるがままに」して、小さくても実際に自分ができることに注意を払えばよい。

小さなことでいい。それを一つ一つ、積み重ねていく過程で、神経症的な躁的快感ではなく、もっと地に足のついた、堅実な生きる喜びを感じることができるだろう。