[ベトナム]インターネットコミュニティに適合するモデルは何か?

ベトナム人 Rubyist の第一人者である Đào Thanh Ngọc さんがなぜ OpenKH という CMS を作る決意をしたか、その理念について説明している記事が、

インターネットコミュニティに適合するモデルは何か?

です。とても格調高い記事で、面白くて一気に日本語に訳してしまいました。間違いがあればご指摘ください。

私の意見では、匿名の人々が意見を交換するには、フォーラム(掲示板)という形式はとても便利じゃないかと思います。しかし、確かに Ngoc さんがこの文章で述べているように、ノイズが多くて、有用な知識を拾い出すのは大変ですね。日本の 2ch とかだと、面白いスレッドに関しては、有志がまとめサイトを作ったりしているみたいですが。私自身は、Google 検索だけで、たいていの用事は済んでしまうのですが、それは私にある程度知識があるからでしょう。初心者のことも配慮し、コミュニティを育てるという観点からは、OpenKH のような bliki 形式のウェブサイトは有用であるように思います。

== 翻訳開始

インターネットコミュニティに適合するモデルは何か?

インターネットコミュニティといえば、主要な活動はすべてウェブ上で行われるのが普通です。ほとんどのウェブサイトは、フォーラムのモデルに従って組み立てられています。電子フォーラム、情報科学フォーラム・・・!結果として、ほとんどのベトナム人は、インターネットコミュニティのウェブサイトといえば、フォーラムだけ、と思い込みがちです。たとえば、このウェブサイトは「情報工学に関するコミュニティブログ」という名前がついているのにもかかわらず、多くの人たちが依然として、これをフォーラムだと思い込んでいます!

この記事では、フォーラムモデルの問題点を分析し、その問題を克服する方法について提案します。

文化と成長

よい遺伝子があれば、私たちはよい成長を遂げる可能性がありますね。しかしながら、よい成長を遂げるには、遺伝子のほかに、文化的要因があります。科学的研究によれば、人類の遺伝子は、この数千年あまり進化していないそうです。つまり、数千年前の一人の子供を連れてきて、現代の生活環境で育てれば、その子は、現代に生まれた子供たちとまったく変わらない成長を遂げるということですね。

リチャード・ドーキンスは次のように述べています。「身体は遺伝子を守り生存させるための機械にすぎず、遺伝子自身は不死である」と。彼はここから、文化資産に関するアイディアを引き出しました。文化はヒトの成長を決定する要因であり、文化全体が世代を超えて受け継がれるというものです。

文化資産は、生物体の中で遺伝子が成長するように、社会の中に拡散する文化情報である。遺伝子は複数のDNA 分子のモデルの中で複製される一方で、文化情報は、脳の構造を変化させることで、実際に痕跡を残す。文化情報は、ファッションや音の調べや新しい技術、といったものに関するアイディアであったりする。私たちが文化情報を学ぶということは、たとえば自転車に乗るように、私たちの脳の中で、新しい連結が作られるということだ。私たちが、子供に自転車の乗り方を教えるとき、文化情報を伝えているということでもある。まさに遺伝子のように、文化情報はほぼ不死であり、突然変異を起こすことがある。「叩く道具を作る」ことに関する文化情報は、少なくとも60万年間存在しているが、それは、くさびからハンマーと斧へと変化してきている。

発展競争と文化資産

人間は、常に競争の中で生きていかねばなりません。60年前、ファシズムのドイツは他民族を抑圧するため、優生学に頼りました。40年前、アメリカ帝国は、最終兵器によって「ハノイ石器時代に戻す」ことを目指しました。つまり、最終兵器を通じて、文化の継承を断絶し、ベトナム民族を萎れさせようとしました。

今日、文化に関する競争は、より平和的なものに変わりました。しかしながら、他民族との競争という面では、もしベトナムの文化が他国に比べて発展が遅れれば、徐々に私たちは衰弱し、自然選択の法則にしたがって、私たちの民族は滅んでしまうでしょう。これから100年以上、私たちの子孫は、現在のような外国の下働きをずっと続けるのでしょうか?

文化資産は、自然に存在するものではなく、必ず継続的に築いていかなければならないものです。継承しやすいように、アクセスしやすい形で文化資産を築くことは、今日を生きる私たちの重要な責務です。

今日、インターネットコミュニティを通じて交流することが、あたりまえになりつつあります。この交流が、巨大な知識を生み出しています。しかしながら、こうした知識の交流は、橋の下を流れる水のようなもので、もしそれを汲みあげる方法がなければ、ただ流れて行き失われてしまうでしょう。また、もしただ汲みあげたとしても、そこから不純物を取り除いて誤りを訂正しなければ、それらはただの巨大なゴミ捨て場になってしまうでしょう。

フォーラムの問題点

通常の「フォーラム」とコンピュータソフトウェアでの「フォーラム」では意味が大きく異なります。残念なことに、ベトナム人はこの2つを“diễn đàn” という一つの言葉に翻訳してしまっています。日本人の方がましで、コンピュータソフトウェアの意味では彼らは「掲示板」という言葉を使っています。ちょうど大学の教務課で見かける掲示板のように。コンピュータソフトウェアの意味でのフォーラムは、すべての人が自由に発表する方法で、迅速な質疑応答を行い、討論をする場となっています。

今日、ベトナム人のほとんどすべてのインターネットコミュニティは、フォーラム形式で活動していますが、多くの不便な点を抱えています:

  • 私たちは、宝石とでもいうべき情報をたくさんもっています。しかし、それを探し出すのに時間がかかりすぎます。大きなフォーラムでは、一つの主題が数十ページにもなることがあります。忍耐強く全部読む人がいるでしょうか。役に立ち詳細で魅力的な記事もあります。その一方で、ほとんど意味のない記事も少なくありません。記事を読むとき、ざっと読んでふさわしい回答がないと、残りをすべて飛ばしてしまいますが、ひょっとしたら、その飛ばしてしまった場所に探すべき情報があったかもしれません。宝石のような情報がすでに長い間そこにあるのに、あまりに多くの人たちが同等の情報を磨くのに時間を費やしています。
  • 記事は多くの場合、追跡しやすい目次形式では提供されません。フォーラムから何かを学ぶことは難しいです。とくに初心者にとっては。
  • 読み物形式(たとえば、チュートリアル)の記事は、普通の討論と一緒に提供され、とても追跡しにくいです。作者が修正編集を加えたとしても、すでに読んだ人のなかにはその編集に気がつかない人もいるでしょう。その結果、無駄な記事を書きやすくなり、あっという間に時代に取り残されてしまうでしょう。

要約すると、フォーラムが向いているのは、初心者レベルの新しいコミュニティが質疑応答と世間話をするのに使うのが主なときだけです。コミュニティが発展して、経験を共有するために、各個人が主体的に読み物を書くことができる段階になると、フォーラムは機能しなくなります。

フォーラムから bliki へ

bliki とは何か知るためには、Wikipedia を読んでください。bliki に関する主要なアイディアは、

  • bliki とはコミュニティのブログであり、ブログと wiki とフォーラムを一つの統一体に連結したものです。統一体であるとは、一つのソフトウェアのなかに各要素が互いに継ぎ目なしに(seamlessly) 統合されているという意味です。3つのソフトウェアが無理やりに一つのウェブサイトに押し込められるのではなく。
  • 多くの人たちが一つの記事を修正することができます。こうやって記事は容易に修正・編集することができ、チュートリアル形式の記事に特に向いています。一つの記事を、長い時間をかけて一から書いて完成させるだけの忍耐力を持った人は少ないでしょう。しかし、最初、勢いをつけるために少しだけかいて、その後で、毎日ちょっとずつ、みんなで改善していけば、必ずコミュニティの誰でもできるはずです。知識ベースとは、主題の集合にすぎません。人間が知識に関して進化できるのならば、各主題もまた完成度に関して進化していけるはずです。最初は内容が乏しく、形式が整理されなくても、少しずつコミュニティが改善することによって、各主題は進化します。

このように、bliki はインターネットコミュニティの基本的ニーズを満たします。インターネットコミュニティは何が必要でしょうか?

  • 質疑応答 => フォーラム機能を使う
  • 記事を書く => ブログ機能を使う
  • 多くの人たちが一つの文章を書く => wiki 機能を使う

フォーラムは田舎くさく、wiki は敷居が高すぎて近づきがたく(誰も修正できるということは、だれも修正の責任を負わないということでもあります!)ブログはあまりに個人的すぎます。力強く発展する動力をもつ共同体を築くためには、「社会主義」と「資本主義」の要素を調和させる必要があり、それには、bliki がいちばん適合するモデルといえます。それは、「私」という要素と「私たち」という要素をバランスさせるのです。

== 翻訳終了