知的謙虚さとしてのハイエク思想

ハイエクは、しばしば「新自由主義」の思想的支柱だと考えられている。新自由主義は、市場至上主義であるかのように喧伝されることも多い。だが、実際にはハイエクは何を考えていたのか。
ハイエクの原典に当たってみた(ハイエク「市場・知識・自由」ミネルヴァ書房

第一章「真の個人主義と偽の個人主義」で、個人主義は人間の利己主義を鼓舞し、非道徳的であるとしばしば批判されることについて、彼は次のように述べている。(p15)

「人々がそれだけを気にかけていると想定される「自己」は、かれらの家族や友人を当然のこととして含んでいる・・・」
「その知的事実とは、ひとりの人間の知識と関心の構造的な限界性である。すなわち、ひとりの人間は社会全体のちっぽけな部分以上のことを知りえないという事実、したがって彼の動機のなかに入りこむことができるのは、かれの行為がかれの知る範囲内においてもつであろう直接的効果だけだという事実である。人びとの道徳的態度にありうるすべての相違は、人間の精神が効果的に理解できるすべてのことは自分を中心とする狭い範囲のことがらに限られているという事実に較べると、こと社会組織に対してもつ意義に関するかぎり、ほとんど意義をもたない」

つまり、ひとりの人間がどんなに利他的であろうとしても、社会において、認知できる範囲も影響を及ぼしうる範囲もきわめて限定されているために、社会に対して真に「利他的」であることはできず、結局は利己的な態度とさして変わらないというのだ。(親しい身の回りの人たちは、「自己」に含まれているので、この文脈における利他主義には当たらない)人間は、自己中心的で社会における自分自身の地位を常に過大評価している。この人類の文明において、わずか数十億分の一の地位を占めるにすぎない、という現実は過酷すぎて、なかなか素直に受け入れられないのだ。

ハイエクの問題意識は、「かくもひとりの人間の知識が限定的で、数千万人が参加するこの巨大で複雑な社会全体を完全に理解している人が一人もいないのに、これらの人たちがお互いの行動を調整しながら、社会が円滑に運営されているのはなぜか」という点で一貫している。

ハイエクは、自分自身が思想的な巨人であったにもかかわらず、なお、自分自身の知的限界についてきわめて意識的であったといえる。そして、一人の天才の創意によってではなく、各個人のもつ限定された知識がすべて生かされる形以外に、豊かな社会を築くことはできないと考えていた点で、とても人間的な思想家だったのではないだろうか。