弱者の定義

ちきりんのこのエントリから始まったアフリカ発展論争。正直、アフリカの心配をする時間があったら、日本経済の心配をしたほうがいいんじゃないかと思うが、確かにアフリカの経済の停滞ぶりは見るに耐えない。(アフリカといっても、今私がイメージしているのはサハラ砂漠の南のサブサハリアフリカ地域。北アフリカイスラム圏だから、サブサハラとは一緒くたにはできない)

このエントリに関連して、アフリカで働いていると見られる人のエントリが投稿された。

アフリカ大陸在住中

このエントリを読んで感じて、ああ、そうだろうな、と思った。

これもちょっと微妙な話題なので、うかつには話したくないのだけれど、私の価値観を表明しておく。

いままで私は、弱者というのは、物理的に弱い存在だと思っていた。病人、貧乏人、被差別階級。だが、上のエントリを読んで、ちょっと考えが変わった。

弱者というのは、自分が不幸であり、その不幸は自分以外の原因で起こっている、と信じている人たちではないだろうか。

その人が、実際のところ、どれくらい健康で、頭がよくて、カネをもっていて、政治的立場が高くて、というのは、本当のところ関係ないのではないか。

そして、弱者と反対に、強者というのは、自分が窮地に立たされたとき、その原因を自分以外のところに求めない人間ではないだろうか。

その人が、実際のところ、どれほど健康を害していて、頭がよくなくて、貧乏で、政治的立場が低いか、というのは、本当のところ関係ないのではないか。

自分が、苦しい立場に置かれたとき、その原因がどこにあるか判断するのは、実のところ主観的なものだ。世の中というのは、もともと不条理なもので、旧約聖書のヨブのように、どんなに真面目で善良な人間もときにどうしようもない不幸の底に叩き落とされる。若くして重い病気に倒れる人。どんなに努力しても希望する大学に入れない人。真面目に商売していたのに、共同経営者の裏切りで、経営が傾いてしまった人。自然災害やテロに巻き込まれて命を落とす人もいる。

そのときに、他人や社会や自然や神のせいにするのも、自分自身に何らかの責任を見出すのも、いずれも正しいのかもしれない。神を呪うこともできるし、あるいは、試練を乗り越えることで人間的に成長できる機会だと信じることもできる。どちらが間違っているということもない。どちらも正しいのだ。そして、どちらを信じるのかは、その人の信念の問題だ。

しかしながら、その帰結は180度違う。

自分の外に原因を求める人は、あくまでもその対象に謝罪と賠償を求める。その間、自分の問題はたなざらしにされたままだ。ある程度の同情を買うことはできるかもしれないが、しつこく他者を責め続ける人の顔はやがて醜くゆがんでいくし、それは周囲の人たちを自然に遠ざける。一人、二人とやがて協力者が去っていき、最後は一人になってしまうだろう。そして、実際にさらに不幸になっていく。

他者を責めない人は、なんとか自分の力で状況を打開しようと真摯な努力を始める。あるいは、世の中には自分の制御の及ばない対象があることを認め、その現実と共存しようとする。自ら道を切り開こうとする人間は、顔つきが引き締まってくる。現実そのものを見て、その根本的な問題点を取り除くべく、実際的な努力をする。すると不思議に協力者が一人、二人と集まってくる。

「天は自らを助けるものを助ける」と聖書は言った。神秘的な力を仮定しなくても、自然の理により、その通りになる、と私は思う。